Month: March 2020

現代短歌のキーワード「読み」/やぎ座

本稿は、crossover内の記事「現代短歌のキーワード「歌評」/安田直彦」から引き継いだものです。 われわれのテーマは一貫して、短歌評論を書く際に重要な参考文献となりうるものを、ここにまとめ記しておく、ということにあります。評を「読み」、「書く」ということはそう容易なことではなく、そこは閉鎖的なコミュニティとなりやすい。にもかかわらず、歌評と銘打たれた文章は毎月のように生産されていきます。なにが良質で信頼できる批評なのか、安田直彦はその判断の軸を形成するに役立つものとして、「歌評」というキーワードから文献を提示しました。かれの示した文献たちは「そもそも評とは何のために、どのようにあるものなのか」という根本的な問いを解きほぐし、われわれに例示してくれています。 ところで、批評するとは、読むということでもあります。われわれは短歌を読み、評します。評と読みの違いは何でしょうか。「歌評」に関して、哲学をソースとする批評、文芸の理論が発見されたいっぽうで、そういった理論的な批評からあぶれてしまうような歌のとらえ方がひどくわれわれを惹きつけることがあるというのもまた事実です。「批評critique」がギリシャ語のkrinō(判断する、裁く)に由来することからもわかるように、批評とは往々にして作品の良し悪しや作品として成り立つか否かを判ずる裁断の場ですが、例えば歌会においてわれわれが目指すのは、判断というより「どう読むか」という判断内容それ自体であるように思われます。 では「読み」とは具体的に何を読んでいくものなのでしょう。あるいは、何を読むことがおもしろいのでしょうか。哲学や文芸理論といった批評のためのツールを取り揃えたところで、捕捉対象がわからないままでは意味がありません。 したがって、ここでは良質な「読み」のサンプルとなるような書物を中心に取り上げようと思います。実際に実践されてきた「読み」を参照することは、われわれが短歌のなにをどう読むのか考えるうえで必ず役立つことでしょう。 また、先にならうのではありませんが、ここでは直接的に短歌をあつかう文献を紹介しません。この記事が短歌世界の外から短歌に触れなおすことの提案として機能し、短歌を考えようとする誰かへの助力となることを願います。   ➀芳川泰久『小説愛 世界一不幸な日本文学を救うために』 タイトルからすでに文壇への批判が見てとれるとおり、文壇を愛をもって叱責し小説をとらえなおそうとする本格的な批評文です。いくつかの小説作品を批評していますが、該当作品を読んでいない方にもわかりやすいような引用がされており、ここに収録されている笙野頼子論では、彼女の作品において「「自分」と「自分の言葉」との距離こそが問題なのだ」と述べたうえで、その読みを次のように導いています。 「ワープロのキーと自分の指の間」とは、まぎれもなく、書く私と言葉の間に介在する距離にほかならない。しかも、その距離を、書いている「私」は埋めつつある。「ワープロのキーと自分の指の間」が「納豆の糸のみたいなものでひっついている」と言っているのだから(……)笙野頼子は、「ワープロを打っている間は自分じゃな」くなることによって、〈私が書く〉ことに根源的に伴う乖離を体感として差し出すと同時に、その乖離を、「ワープロのキー」と「自分の指」の「間」として引き受けながら、それを「納豆の糸のようなもの」で「グチョッと固め」ようとする。 芳川泰久『小説愛 世界一不幸な日本文学を救うために』 このような批評は「そう読みうる」というだけの話であって、作者の意図とは違っているかもしれませんし、「そんなことは読み取れない」と主張する人もいるかもしれません。しかし、こういった読みは、論理的な説得力を持っており、かつ機械的な理論に凝り固まることのない自由なものであるという点でたのしいのではないでしょうか。 また、芳川泰久は一貫して、「物語が既成の物語をなぞってしまう」ということを問題視し、これを主題として文章を書いています。短歌に関わろうとする読者にとっては、短歌が他のすでにある物語に回収されてしまう事態を考える上でも参考になるでしょう。 これ同様、小説を読むという観点で探すならば、古典的なものでいうと蓮見重彦の『夏目漱石論』、『物語批判序説』などがあります。かれの文章は芳川泰久と比較すれば少々読みにくいですが、「読み」のエッセンスが詰まったものになっているので、代えがたい読書になることと思います。   ②鷲田清一『モードの迷宮』 定型という制約は、現代短歌において必ずしも五・七・五・七・七を強制するものではなくなっています。しかし、短歌が定型に縛られる詩形であるという事実を手放すことは不可能です。ある言葉、物語、感情が短歌へ形作られることは、実際にはひどく不自然なことかもしれません(それは短歌に限らず、ありとあらゆる表象行為につきまとう事実です)。短歌というかたち、ふるまいは、内容を縛り、統合し、不自然なほど暴露するもののようにも思われます。『モードの迷宮』は、ファッションの問題を導入としつつ〈わたし〉という存在がどのように生成されるのかという問いへ言及するものであり、詩的定型が論の本筋に取り上げられることはありませんが、さきに述べたような定型のかたち、ふるまいを考えたとき、定型という規則が『モードの迷宮』内で取り上げられる衣服の性質とよく似た特徴を持つように見えてきます(論の中身にほとんど現れないはずの「詩」が、文中で何度か例えとして登場することは示唆的です)。そしてこの本は、短歌における〈わたし〉の成立に対しても思考の足掛かりとなるでしょう。モードという表象から形作られる〈わたし〉への考察は、短歌という言葉から立ち現れる(ように見える)〈わたし〉を考えるうえで十分役に立つと思います。   ③ロラン・バルト『明るい部屋』 有名な書物ですが、哲学や批評にとらわれない「読み」の楽しみを体現している文献として、あえて改めて取り上げさせていただきます。先のふたつの文献は短詩型へ接続できるような理論が見て取れるということがここに取り上げた理由のひとつでしたが、『明るい部屋』はそれらと異なり、ある理論を整理し語るのではないところをめざして書かれた書物です。著者は一章の終わりに、それまで自身が組み立ててきた理論を「前言取り消し」し、写真への新たなアプローチを開始してしまいます。その「前言取り消し」を含めて一冊の本になっているというところに、『明るい部屋』の特異性があります。 バルトは自身について「あらゆる還元的な体系に反発する」人物であり、体系の援用によって自身の書き物が還元と非難に傾くたびに「体系からそっと離れてよそを探し、またちがったふうに語りはじめるのがつねだった」と語りますが、短歌において歌会が楽しまれるのはそこが「よそを探す」場であるからかもしれません。批評や理論がひとつに固定されず自由であることが「読み」の可能性なのだということを知らしめてくれる書物です。 これに関連して、映画を読む文章としてわれわれに有益だろうと思われるのがアンドレ・バザンの『映画とは何か(上・下)』です。映画と映画観客、映画と戦争との関係にも言及しながら分析を行っており、テクストとコンテクストとのどちらもないがしろにしない彼の文章は、読みの一例として他にない光を放っています。   追加でいくつか挙げさせていただくと、読みの教科書となるものとして渡部直己『私学的、あまりに私学的な 陽気で利発な若者へおくる小説・批評・思想ガイド』や松本和也の『テクスト分析入門 小説を分析的に読むための実践ガイド』などがあります。丁寧かつ体系的にまとまっているため、批評や読み の実践にとまどう方にとってはとても便利でしょう。ただしこれらについては、多少テクスト分析に偏ったものであること、教科書的な道すじがあらかじめ敷かれていることの二点を理解したうえでお読みいただくとより有意義だろうと思います。 最初に述べたように、ここまで短歌以外のものを読もうとする文献を挙げてきましたが、瀬戸夏子『現実のクリストファー・ロビン』は数ある短歌評論の中でもとりわけ中身の詰まったものであり、特に「「テーブル拭いてテーブルで寝る」(雪舟えま)のは?」、「穂村弘という短歌史」、「私は見えない私はいない/美しい日本の(助詞の)ゆがみ(をこえて)」などは、歌の読みをいじくりまわすのではなく、読みの中からある企みを浮かび上がらせる稀有な短歌評論ですので一読をおすすめします。 また、Y・トゥイニャーノフ『詩的フォルマリズムとはなにか ロシアフォルマリズムの詩的理論』は詩的言語に関する理論ですが、読んでみると句切れや字あけ、韻など短歌に近いものが考察されています。「読み」というよりは「批評」に関連した書物ですが、短歌を題材に文章を書く上で必ず役立つだろうということで紹介させていただきます。  …

Ambiguity/北虎あきら

降る雪をおぼえず雪の降っていたことをこころの母神に見せる てめえだろ   の にぶい電車を 横切らすうちに 不快ですまでにはなった おまえはピアスだらけの女を選ぶよと言われたときに光る水星 靴下のくるまりたがる苦しさを冬の袋小路に嘔吐いた ねむるまでゆれるからだの 凪いでいる海をわかるのはかもめだけ 小気味よく撮ってくれてた軒先のパラパラ漫画みたいにぼくだ 伏線の回収のためにうたう歌 あなたが握るならとおくコーラス 春がすみ澄みきるまでをまなうらのどうしても忘れる飛行船 ほろぼす、と決めてからやる仕事にはChillLo-fiJazzHopでちょうど 間奏のなかをとどかなかったからあかるいテロップに目をやった 思い出すようにおぼろの遠くから立体になる東京タワー 公園通りゆけばこの世は名前からわからなかった種類の楽器 幽霊の話がしたい Googleにゆうぐれをたくさん見せてもらう 動かないまでもことばを揺らさねばブランコの底に水溜まり 浴槽の水面から目をゆるめるとおおきくなるほくろ 腰骨の 北虎 あきら会社員。誠実と素直。

3冊の歌集から/山木礼子

なぜ、歌の側ばかりが虚構を問われるのだろう。主体の背後で文句ひとつ言わず、行儀よく息を詰めているような、確固としたわたしなどいない。定型の力を借りて立ち顕れる正しい現実なんて初めからない。今のわたしは、十年前のわたしと同じとは呼べないほどに変わってしまった。現実はいつでも懐が深く、情け深く、どのようにあってもあなたはあなただからと耳元へ優しく囁きながら、あちこちの不都合をごまかしてくる。その中でも耳障りの悪くなさそうな方へ向かって歩くうち、気づいたらこんな手痛い有様になっていたことにようやく気付いてわたしは三十を過ぎた。 しかし、だからこそ、歌を通して描かれる街中の風景、事物や、身めぐりの生活といった出来事に目が留まる。言葉によって書かれた、変換されたという「事実」をあらかじめ示されたもとに生まれた世界は、なんとも頼もしい。しかも、定型の韻文という心強い前提があればなお。「これは短歌ですよ」と差し出されれば、その光景が暗かったり、明るかったり、楽しかったり、苦しかったりするのは当たり前のことだ。そこには音数の制限がかかり、リズムやメロディの作用が加わるからだ。レトリックをたっぷりと纏った言葉、そんな言葉に象られた事物は、かえって身軽に見えるのが不思議だ。いま、混沌と浮かんでいる考えをまだなにも説明できた気がしないが、とにかく以下で、好きな歌集の好きな歌を追いかけてみることにする。               * これまでの恋人がみな埋められているんだそこが江の島だから 生乾きのインコを投げる生乾きのインコはそれは生臭かった カキフライかがやく方を持ち上げて始発、東西線に投げ込む 𠮷田恭大『光と私語』 まず一章から。どれも噓であることをあけすけに宣言して、そのせいかまばゆい。物語的に語られてきた現実を下敷きとした、物語的な噓。江の島には、紋切り型の物語が埋められてゾンビのように生き生きとよみがえる。「生乾きのインコ」。インコは、というか生きているものはだいたい生乾きだし、だいたい生臭い。子供の頃、まだあった飼育小屋は年中臭かった。生臭いのとは違うが、生き物の匂いがした。しかし「生乾きのインコ」には架空の響きがある。なぜか。「乾いたインコ」と言ってしまえば死んだインコをストレートに想起させ、けれど生死不明の(?)インコをわざわざ「生乾き」と表現することは必要とされる以上のディテールを描きすぎていて、つまり言いすぎだから。現実を超えているのだ。架空である。「投げる」という身体的な動作によってこの現実へ繋ぎ止められながら、濡れて乾いて「生乾き」と二度も呼ばれたインコは、𠮷田の試みの輪郭をやたら丁寧になぞっている。カキフライだって同じことで、要するに、目の前にあるものを急に放り投げる事態はそう簡単に起こらないのだ。だって、始発。カキフライ。いまだかつて、始発の東西線に向かってカキフライが放り投げられた事件はないだろう。スポーツなどを除いて現実で「投げる」という行為に至るのは、激しい憤りや不安を抱いたとき。一方で、そういうときには怒りに震える自分をどこか遠くから、ちょっと冷めた目で眺めている自分もいる。そんな二重写しの物語を手際よく拾いながら、「インコ」や「カキフライ」は𠮷田の短歌において生々しい水気を滴らせている。  二章からは様相がさらに変わり、「大きい魚、小さい魚、段ボール」という一つ目の連作はこんな作品で始まる。 (演説は退屈だけれども、/と男が言った。/そこから先は案の定有料だった。) 始まる前に座らなければならないし、/読む前に言葉を覚えなくてはならない。 𠮷田恭大『光と私語』 この歌集は親切なのだ。「いぬのせなか座」とのコラボレーションによる特異な視覚的表現をページごとに刷り込まれながらの、「そこから先は案の定有料」。これで終わるはずはない、どこまで連れて行ってくれるのという読者の期待を、煽情的にかきたてる。と同時に、演劇にてんで明るくないわたしであっても、知りうる限りの知識を差し出しながら、信じるだけの「演劇性」を追いかけてゆけばついてゆけるかなと思わせてくれる。「演説」の「演」には演劇の「演」が当然掛かっているのも見逃せない。 (ぢつと手をみる)/というオプション。/(たはむれに母を背負)ったりする、/そういうオプション。 𠮷田恭大『光と私語』 この歌について、花山周子は砂子屋書房「日々のクオリア」で「本歌を部品に解体することにより本歌取りという有機的な対話を一旦無化するとともに、近代的価値観を、現代の選択肢としての部品へと還元する」と評している。二章では、都電と巣鴨界隈と老人にまつわる風景(「されど雑司ヶ谷」)や、作者の生まれである鳥取の光景(「末恒、宝木、浜村、青谷」)をめぐる連作が展開される。都心/地方、若者/老人という不均衡な構造を取り上げながら、どこか淡々とした乾いた調子。後ろめたい態度ではない。わたしはいま不均衡と書いたけれど、その実、もうどちらがいいとか悪いという状況はすでに解体されてしまっている。みんな違って、良くて悪い。と𠮷田が考えるのかはわからないが、硬質な口語の文体そのものが、何かひとつのスケールとして機能しているようだ。  三章はふたたび一首単位のページ組に戻り、ぐっと胸を掴まれるようないい歌が一番多いように思う。このソナタ形式がまた読みやすく、野心に満ちた歌集を、端正にまとめあげている。 自転車屋に一輪車があって楽しい、あなたには自転車をあげたい その辺であなたが壁に手を這わせ、それから部屋が明るくなった 燃えるのは火曜と水曜と土曜。火曜に捨てる土曜の残り 𠮷田恭大『光と私語』               * 二冊目は山階基『風にあたる』より。彼とは一年半ほど前、「夏 暑い」という往復書簡と短歌のペーパーを作ったことがあり、この冬に読み返してみた。「生活は好きですか」という私の問いかけに、「好きだなと思っても嫌いだなと思ってもどこか違和感があり、どうも好きと嫌いの埒外にある」と答えている。 アルコール噴霧器を押す病院に生まれたぼくは病院が好き 山階基『風にあたる』…

ガードレールの群れで死にたい/溺愛

身軽な身として飛び回る、小鳥とは別の骨の飛びかたとして 揶揄をする 春の野の原進みつつ蓮華が我の揶揄だと思う 「遺体のように見えるポスター」 普通なら殴るよりも走るよね 春の野の原ゾンビだけがそこにいるなら ここへ帰ろう。喉元に花が咲くならそこに白きナイフを おお願い あるが如く の漢字の由来がわからない。女と口ってちょっとウケるね モールス信号始めよう、--・-- ・- --・-・ ・-・-- -・--・今適当に言った 鈍器すらいらないそれは自死でない。自死を選べるものの選択(としての手段) ぼくたちのしりとりはすこしへんだけど君の尻尾を摑んで泣かせる 少しだけ優しい人だねあなたとは名前に自我があるうちゆるそうらやましがれきみにころされたのだぞぼくは 唐突に電球色が現れて、太陽なのだと君に名乗った 愛してね、君の感情そのものが春の名だと教えたあなたを憎んでね、僕の名前のそのものが春の名だとか教えた君を 嫌われた理由があると信じてる嫌われるそれに名前を教えてあげつつ と、思うでしょ?それがぼく。 あ る がとう。左利きでAB型で乙女座ですらない君が僕の名前を持つことに 溺愛殺すぞと言われれば波のよう

写真と短歌へのエッセー/村本有

大学入ったころから短歌を作り始め連日夢中になっていたのだが、いつの間にか写真も撮るようになっていた。それは空き時間に行っていたサークル部屋の積読コーナーのおかげなのだが、そこにはWolfgang Tillmansの写真集が置いてあり、彼の撮る写真を見るたびに不思議な気持ちがした。見ず知らずの景色の写真なのに、どうして私は共感し、そしてポエジーを感じているのだろう? と。 1. 脱プライベート化された日常写真 短歌と写真を同時並行して作っているうちに、短歌がもつポエジーを写真でも提示できないかと考えるようになった。ポエジーは解釈が膨大なので、ここでは仮に私が短歌で挑戦していたポエジーに限定させていただくと、「あるイマージュの提示あるいはその連続による動画的情景と、物語性を秘めた感情の融合」とする。 短歌と写真の違いの一つにイマージュの見せ方、そしてその共有性が挙げられる。 まず短歌で想起されるイマージュは継起的である。短歌では読み進めていくうちに読者に情景が想起され、そこにポエジーの余韻を味わうこともできるだろう。しかしながら受容者の数だけイマージュは解釈可能であり、また受容者のいる時代、そして経験によって大きくイマージュは変容してしまう。そのことが、短歌が普遍性を確立できている理由の一つであることは承知している。しかし今ここで言いたいことは、短歌では作者・受容者間でイマージュのある程度の共有は可能でも限定は不可能ということだ。 一方写真は理論上全ての情報を、全イマージュを一つの位相に表すことができる。そして写真は必ずイマージュを限定し、どの時代でも、どのような経験をしようと、受容者と作品で出発点の共有が可能だ。 しかしながら言い方を変えるならば、写真は強制的にイマージュの限定を行うため、短歌のようにイマージュやポエジーをある意味受容者の経験に頼ることはできない。イマージュの限定はできても、受容者にとって誰しもが経験したことのように思わせることは難しい。すなわち写真を脱プライベート化しつつ、そのうえでプライベート的にしなければ写真芸術として成り立たないという逆説的な問題があるのだが、Tillmansの写真はまさしくそれを実現した写真だった。身近な日常を撮りつつもプライベートの匂いを残さないことで、限定されていたイマージュは全受容者の個人的経験に頼ることができ、あとはどのような物語性があるのか、どのようなポエジーがあるのかは読者の楽しみとなる。 私は普段家の中や身の回りを撮ることが多いが、そのときはプライベート写真とならないようにすること、また常にカメラを携帯し、些細な気づきを見逃さないことに気を付けている。そのようにして撮った写真をまず紹介させて頂きたい。 2. 脱イマージュ共有化 脱プライベート化による受容者の経験に頼ったポエジーの発露、それはイマージュの共有化を目指したところから始まったと考えている。 しかしながら数多くの写真家の写真を見ていると、イマージュの共有化を目指しているとはいえない写真も多い。しかしながらそれらの写真には訴えるもの、それはときには感情であり、ときには物語性であるのだが、それらがあまりに力強いため受容者はまるで同じ体験をしたかのような感覚を得る。「イマージュが受容者にとって共有化されていなくても、感情あるいは物語性を即座に受容者へ同期する力」、それが写真の力強さと仮定するならば、力強さだけで写真芸術として成り立つのではないだろうか。 まず感情の同期について そして次に物語性の同期について 3. 脱記号 例えば階段の写真を撮ったとき、それは階段だとほとんどの人が認識すると思うが、いったんその認識を外れ、物体がもつ意味を解体することができるだろうか。そしてそのうえで新しい意味を見出すことはできるだろうか。 ある日偶然撮れた写真がそのような考えのきっかけとなり、全ては記号化されているなら新しく意味づけすることの面白さがあるのではないか、そしてそこにポエジーを絡ませることができるなら、私は写真で短歌的ポエジーを提示できるのではないだろうか? 1,2,3の挑戦がうまく働けば、私は写真で短歌できるのではないだろうか? 4. 最後に 今まで数年間写真を撮り続け、自分の挑戦してきたことをまとめさせて頂いた。今まで自分が「写真で何をしたかったのか」そして「写真で何がしたいのか」 そのことに自覚的になることが撮るうえでとても重要なことだと思っている。 短歌と写真は違うものだと思っていたが意外にも共通点は多く、それは私にとってかなり魅力的だった。なかでも最も重要と思われるものは、受容者にポエジーを想起させる力である。 写真で短歌できるのでは? と暴論を書いてしまったが、写真はイマージュを限定できるし、そのうえで短歌的な表現ができるなら私にとってこれほど嬉しいことはない。 この取り組みが今後どのようになるかは分からないが、新たな境位にたどり着けるのではないかとひそかに願っている。 ※写真は全て村本にて撮影 村本…