なぜ、歌の側ばかりが虚構を問われるのだろう。主体の背後で文句ひとつ言わず、行儀よく息を詰めているような、確固としたわたしなどいない。定型の力を借りて立ち顕れる正しい現実なんて初めからない。今のわたしは、十年前のわたしと同じとは呼べないほどに変わってしまった。現実はいつでも懐が深く、情け深く、どのようにあってもあなたはあなただからと耳元へ優しく囁きながら、あちこちの不都合をごまかしてくる。その中でも耳障りの悪くなさそうな方へ向かって歩くうち、気づいたらこんな手痛い有様になっていたことにようやく気付いてわたしは三十を過ぎた。

しかし、だからこそ、歌を通して描かれる街中の風景、事物や、身めぐりの生活といった出来事に目が留まる。言葉によって書かれた、変換されたという「事実」をあらかじめ示されたもとに生まれた世界は、なんとも頼もしい。しかも、定型の韻文という心強い前提があればなお。「これは短歌ですよ」と差し出されれば、その光景が暗かったり、明るかったり、楽しかったり、苦しかったりするのは当たり前のことだ。そこには音数の制限がかかり、リズムやメロディの作用が加わるからだ。レトリックをたっぷりと纏った言葉、そんな言葉に象られた事物は、かえって身軽に見えるのが不思議だ。いま、混沌と浮かんでいる考えをまだなにも説明できた気がしないが、とにかく以下で、好きな歌集の好きな歌を追いかけてみることにする。

              *

これまでの恋人がみな埋められているんだそこが江の島だから

生乾きのインコを投げる生乾きのインコはそれは生臭かった

カキフライかがやく方を持ち上げて始発、東西線に投げ込む

𠮷田恭大『光と私語』

まず一章から。どれも噓であることをあけすけに宣言して、そのせいかまばゆい。物語的に語られてきた現実を下敷きとした、物語的な噓。江の島には、紋切り型の物語が埋められてゾンビのように生き生きとよみがえる。「生乾きのインコ」。インコは、というか生きているものはだいたい生乾きだし、だいたい生臭い。子供の頃、まだあった飼育小屋は年中臭かった。生臭いのとは違うが、生き物の匂いがした。しかし「生乾きのインコ」には架空の響きがある。なぜか。「乾いたインコ」と言ってしまえば死んだインコをストレートに想起させ、けれど生死不明の(?)インコをわざわざ「生乾き」と表現することは必要とされる以上のディテールを描きすぎていて、つまり言いすぎだから。現実を超えているのだ。架空である。「投げる」という身体的な動作によってこの現実へ繋ぎ止められながら、濡れて乾いて「生乾き」と二度も呼ばれたインコは、𠮷田の試みの輪郭をやたら丁寧になぞっている。カキフライだって同じことで、要するに、目の前にあるものを急に放り投げる事態はそう簡単に起こらないのだ。だって、始発。カキフライ。いまだかつて、始発の東西線に向かってカキフライが放り投げられた事件はないだろう。スポーツなどを除いて現実で「投げる」という行為に至るのは、激しい憤りや不安を抱いたとき。一方で、そういうときには怒りに震える自分をどこか遠くから、ちょっと冷めた目で眺めている自分もいる。そんな二重写しの物語を手際よく拾いながら、「インコ」や「カキフライ」は𠮷田の短歌において生々しい水気を滴らせている。

 二章からは様相がさらに変わり、「大きい魚、小さい魚、段ボール」という一つ目の連作はこんな作品で始まる。

(演説は退屈だけれども、/と男が言った。/そこから先は案の定有料だった。)

始まる前に座らなければならないし、/読む前に言葉を覚えなくてはならない。

𠮷田恭大『光と私語』

この歌集は親切なのだ。「いぬのせなか座」とのコラボレーションによる特異な視覚的表現をページごとに刷り込まれながらの、「そこから先は案の定有料」。これで終わるはずはない、どこまで連れて行ってくれるのという読者の期待を、煽情的にかきたてる。と同時に、演劇にてんで明るくないわたしであっても、知りうる限りの知識を差し出しながら、信じるだけの「演劇性」を追いかけてゆけばついてゆけるかなと思わせてくれる。「演説」の「演」には演劇の「演」が当然掛かっているのも見逃せない。

(ぢつと手をみる)/というオプション。/(たはむれに母を背負)ったりする、/そういうオプション。

𠮷田恭大『光と私語』

この歌について、花山周子は砂子屋書房「日々のクオリア」で「本歌を部品に解体することにより本歌取りという有機的な対話を一旦無化するとともに、近代的価値観を、現代の選択肢としての部品へと還元する」と評している。二章では、都電と巣鴨界隈と老人にまつわる風景(「されど雑司ヶ谷」)や、作者の生まれである鳥取の光景(「末恒、宝木、浜村、青谷」)をめぐる連作が展開される。都心/地方、若者/老人という不均衡な構造を取り上げながら、どこか淡々とした乾いた調子。後ろめたい態度ではない。わたしはいま不均衡と書いたけれど、その実、もうどちらがいいとか悪いという状況はすでに解体されてしまっている。みんな違って、良くて悪い。と𠮷田が考えるのかはわからないが、硬質な口語の文体そのものが、何かひとつのスケールとして機能しているようだ。

 三章はふたたび一首単位のページ組に戻り、ぐっと胸を掴まれるようないい歌が一番多いように思う。このソナタ形式がまた読みやすく、野心に満ちた歌集を、端正にまとめあげている。

自転車屋に一輪車があって楽しい、あなたには自転車をあげたい

その辺であなたが壁に手を這わせ、それから部屋が明るくなった

燃えるのは火曜と水曜と土曜。火曜に捨てる土曜の残り

𠮷田恭大『光と私語』

              *

二冊目は山階基『風にあたる』より。彼とは一年半ほど前、「夏 暑い」という往復書簡と短歌のペーパーを作ったことがあり、この冬に読み返してみた。「生活は好きですか」という私の問いかけに、「好きだなと思っても嫌いだなと思ってもどこか違和感があり、どうも好きと嫌いの埒外にある」と答えている。

アルコール噴霧器を押す病院に生まれたぼくは病院が好き

山階基『風にあたる』

「目がさめるだけでうれしい 人間がつくったものでは空港がすき」雪舟えま『たんぽるぽる』)との大きな違いがある。空港が好きな人に比べて、病院が好きな人の絶対数はきっと少ないだろうということだ。「病院嫌い」はあっても、「空港嫌い」はない。「空港がすき」にはそういう見方があるのかというゼロからの視点の立ち上げがあり、「病院が好き」は「嫌い」というマイナス点からの飛躍がある。これは「嫌い」という価値判断の手続きがあらかじめあってこその一首で、しかし、「好き」と結句で断言されると読者もだんだん病院が好きになってくる感じがする。

ボトル缶まわし飲みしてうつる風邪ばかの数だけばかのひく風邪

三基あるエレベーターがばかだからみんなして迎えに来てしまう

もう悲しむのもばかみたい焼きそばは大失敗がないから好きだ

  

山階基『風にあたる』

「ばか」は、この歌集で重要な地位を占める語だと考える。親しい人に面と向かってバカなんて言われるとかなりショックを受けるに違いないが、言う方は衝動的であるばかりでたいした含みを持たせたいわけではない。どこか懐かしい手触りの素朴な言葉。ここではそんな前提を汲み取った上で、いずれもひらがなに開いて、やさしい調子で使われている。右に挙げた三首目、上句の「ばか」と下句で釣り合っている言葉は、手痛い「大失敗」ではなくて失敗知らずのおいしい「焼きそば」にあたる。すでに触れた「好き」の話題も加わり、いい感じの結句になる。が、根底には強いほうの「バカ」も確実にあり、その落差をすべり落ちる感覚が、一首の眼目となっている。「バカ」は日常使いを超えた言葉で、一方で短歌という日常を離れた韻文に組み込まれることで、逆に日常とのコネクタのような働きをする。

「ばか」と呼び替えられるとき、それが風邪ひきの知人であっても、エレベーターでも、自分自身であっても、同じだけ世の中からほんの少し低められる感じがする。「同じだけ」。言葉遊びになってしまうが、「大ばか者」「小ばかにする」といった大小の比較が「ばか」に付きまとうのがおかしい。

夢だからこそ全身に生えてくるスパンコールを剝がさなければ

山階基『風にあたる』

不思議な構造の歌。「夢だからこそ」は「全身に生えてくる」「スパンコール」「剝がさなければ」の全部に、うすく暈をかけているように読める。一字あけをほとんど用いない山階の歌の、また一般に口語文体と呼ばれる日本語の特徴としても、連体形と終止形の見た目が同じであるため、切れる文も切れない文も、咄嗟にはあわく繫がって見える(一行書きであればなおさら)。歌意が合唱のように重なり合いながらふくらむ作用があるというか。この歌はその進化版とでも言えるだろうか。一見、意味性の薄そうな「だからこそ」に、韻文特有の強い負荷がかかっている。裏側に貼りついた「夢でなかったら」(現実だったら)という仮定の陰影が濃い。

わたしはやっぱりこう呼びたくなるのだが、山階の書く「生活の歌」の解像度は間違いなく高い。そして、状況を遠回しに丁寧に書くようなレトリック、「書きぶり」を通じて、歌における正直さ、すなおさといったものを打ち出そうとしている。「夢だからこそ」のような歌では、丁寧さは慎重さの効果をも果たしている。自覚的に用いられる「ばか」もそうだ。どんな現場を書くのであれ丁寧に推敲されなければ歌にはなれないという短歌のそもそもの特性が、ここでは逆回転して、丁寧に生きられている世界という印象に関与しているように見える。

              *

三冊目は笠木拓『はるかカーテンコールまで』とします。二月の「さまよえる歌人の会」では、レポーターを務めさせてもらったうえでまだまだ話したりなかったので。

秋の日のこんな大きな吹き抜けに誰ひとりひざまずいていなくて

鳩時計鳴くときふいにこぼれくる鳩を包める闇の優しさ

あなたが撮った空の写真を眺めても僕の高さに僕の両目は

笠木拓『はるかカーテンコールまで』

ストレートに抒情した、いわゆるうまい歌。特に三首めに顕著かと思うが、いずれも視野の限界が、歌の限界に一致している。「大きな吹き抜け」や「闇」について言うとき、そこに書かれる空や闇が、無限に広がってはいないことを妙に意識させる。メインの視点は空や闇の内側にあるのに、もっと俯瞰的な場所から眺めるサブの視点が二重に置かれている。

ゆうやみの横断歩道を渡りゆくどの手もやがて灯をともす手だ

彼方なる星座の人もけだものもおやすみ。撃ち落としてあげるよ

笠木拓『はるかカーテンコールまで』

歌が目に見える範囲を貫いて想像の境地へと至るとき、「やがて」「。」といった表現を通して、書き手の立ち位置が同一のレベルにないことが明確になる。関西弁で慣用的に使われるらしい「知らんけど」という言い回しをわたしは好んでいるのだが、右の歌の内部には「知らんけど」的優しさが流れる(なお本書プロフィールによれば作者は「新潟生まれ。石川育ち」)。

「撃ち落としてあげる」はずいぶんテンションが高いように見えて、無邪気なようで残酷なようで、しかし実際にはかなり冷静に選ばれた語ではないかと思う。句点を挟んだ向こう側にある「彼方なる星座の人」「けだもの」は、はっきりと現実から隔たったフィクションである。つまり「撃ち落としてあげる」の不可能性もまた明確で、そんな無力さがこの一首をさりげなく通過する。

木の葉・雨・声・星・みぞれ 降るものは抱えきれないものとしてだけ

笠木拓『はるかカーテンコールまで』

この名詞の羅列もテンションが高いわりにベタすぎる、と思われるかもしれないけれど、私は賛成。たとえば奇異な名詞のトリッキーな配置によってものすごい空想へ飛躍できる可能性があるとして、ではこの順列の、「木の葉」「雨」「声」……といった当たり前にポエティックな名詞の組み合わせは、所詮はやりすぎた現実みたいなもの?

そうではないと思う。だって、どこまでこんな要素を重ねても、結局は実現できない世界であることに変わりないのだから。「木の葉」「雨」などはそのへんでいくらでも見られる素朴な事物であるにもかかわらず、そうであってすら、ここで作者が書こうとする情緒的光景は世界中のどこにも「ない」ということに、読者としてのわたしは愕然とせざるをえない。腕の間をすり抜けていく身体感覚に結びついた「抱えきれない」は、もう少し広範な意図をも持っている。美しいものは初めから抱えきれない、そういうものが空から降ってくる。読者からしたらコモンセンスの内側で飛躍すらしていない描写、けれど、それなのに決して実現はしないもの。この歌にあるのは、不可能を可能にするというより、不可能が不可能であることを明示する、理知的で真摯な態度ではないかと思うのだ。しかも、ありきたりの諦観ではないやり方で。これは覚悟に満ちたかっこいい歌だ。

              *

世の中で「なんでもできる」なんてことはない。今回取り上げた三冊からは、短歌で何をしたいか、させたいかという意図が強く伝わる。無数のレトリックで言葉を緊密に縛り上げた結果として。自由さと裏腹の引き攣るような不自由さが、まさに定型という器を通して、作者という限られた存在を通して、広い場所へ引きずり出され吐き出されていることがたまらなく愛しい。

最後にわたしの個人的な話をすると、育児と仕事とそれ以外のたくさんの大切なことといった感じで迷いが止まらない。どこへ進もうにも、結局は社会の誰かが求める「良妻賢母2.0」的な役割を演じているだけなのではないかと、まったく疑念に満ちた日々だ。大人になってもずっと巨大ななにかに飼われているだけなんじゃないかと。もっとも、首輪のない人生をわたしはまだ知らないので、自由とはなんなのかがまだわからない。

限られた文字数の中に作者の手つきを読み取ること。そこに、短歌と触れあい、深く読んでいくことの可能性が、どこまでも根を下ろしているように思っている。