Category: 現代短歌のキーワード

現代短歌のキーワード「読み」/やぎ座

本稿は、crossover内の記事「現代短歌のキーワード「歌評」/安田直彦」から引き継いだものです。 われわれのテーマは一貫して、短歌評論を書く際に重要な参考文献となりうるものを、ここにまとめ記しておく、ということにあります。評を「読み」、「書く」ということはそう容易なことではなく、そこは閉鎖的なコミュニティとなりやすい。にもかかわらず、歌評と銘打たれた文章は毎月のように生産されていきます。なにが良質で信頼できる批評なのか、安田直彦はその判断の軸を形成するに役立つものとして、「歌評」というキーワードから文献を提示しました。かれの示した文献たちは「そもそも評とは何のために、どのようにあるものなのか」という根本的な問いを解きほぐし、われわれに例示してくれています。 ところで、批評するとは、読むということでもあります。われわれは短歌を読み、評します。評と読みの違いは何でしょうか。「歌評」に関して、哲学をソースとする批評、文芸の理論が発見されたいっぽうで、そういった理論的な批評からあぶれてしまうような歌のとらえ方がひどくわれわれを惹きつけることがあるというのもまた事実です。「批評critique」がギリシャ語のkrinō(判断する、裁く)に由来することからもわかるように、批評とは往々にして作品の良し悪しや作品として成り立つか否かを判ずる裁断の場ですが、例えば歌会においてわれわれが目指すのは、判断というより「どう読むか」という判断内容それ自体であるように思われます。 では「読み」とは具体的に何を読んでいくものなのでしょう。あるいは、何を読むことがおもしろいのでしょうか。哲学や文芸理論といった批評のためのツールを取り揃えたところで、捕捉対象がわからないままでは意味がありません。 したがって、ここでは良質な「読み」のサンプルとなるような書物を中心に取り上げようと思います。実際に実践されてきた「読み」を参照することは、われわれが短歌のなにをどう読むのか考えるうえで必ず役立つことでしょう。 また、先にならうのではありませんが、ここでは直接的に短歌をあつかう文献を紹介しません。この記事が短歌世界の外から短歌に触れなおすことの提案として機能し、短歌を考えようとする誰かへの助力となることを願います。   ➀芳川泰久『小説愛 世界一不幸な日本文学を救うために』 タイトルからすでに文壇への批判が見てとれるとおり、文壇を愛をもって叱責し小説をとらえなおそうとする本格的な批評文です。いくつかの小説作品を批評していますが、該当作品を読んでいない方にもわかりやすいような引用がされており、ここに収録されている笙野頼子論では、彼女の作品において「「自分」と「自分の言葉」との距離こそが問題なのだ」と述べたうえで、その読みを次のように導いています。 「ワープロのキーと自分の指の間」とは、まぎれもなく、書く私と言葉の間に介在する距離にほかならない。しかも、その距離を、書いている「私」は埋めつつある。「ワープロのキーと自分の指の間」が「納豆の糸のみたいなものでひっついている」と言っているのだから(……)笙野頼子は、「ワープロを打っている間は自分じゃな」くなることによって、〈私が書く〉ことに根源的に伴う乖離を体感として差し出すと同時に、その乖離を、「ワープロのキー」と「自分の指」の「間」として引き受けながら、それを「納豆の糸のようなもの」で「グチョッと固め」ようとする。 芳川泰久『小説愛 世界一不幸な日本文学を救うために』 このような批評は「そう読みうる」というだけの話であって、作者の意図とは違っているかもしれませんし、「そんなことは読み取れない」と主張する人もいるかもしれません。しかし、こういった読みは、論理的な説得力を持っており、かつ機械的な理論に凝り固まることのない自由なものであるという点でたのしいのではないでしょうか。 また、芳川泰久は一貫して、「物語が既成の物語をなぞってしまう」ということを問題視し、これを主題として文章を書いています。短歌に関わろうとする読者にとっては、短歌が他のすでにある物語に回収されてしまう事態を考える上でも参考になるでしょう。 これ同様、小説を読むという観点で探すならば、古典的なものでいうと蓮見重彦の『夏目漱石論』、『物語批判序説』などがあります。かれの文章は芳川泰久と比較すれば少々読みにくいですが、「読み」のエッセンスが詰まったものになっているので、代えがたい読書になることと思います。   ②鷲田清一『モードの迷宮』 定型という制約は、現代短歌において必ずしも五・七・五・七・七を強制するものではなくなっています。しかし、短歌が定型に縛られる詩形であるという事実を手放すことは不可能です。ある言葉、物語、感情が短歌へ形作られることは、実際にはひどく不自然なことかもしれません(それは短歌に限らず、ありとあらゆる表象行為につきまとう事実です)。短歌というかたち、ふるまいは、内容を縛り、統合し、不自然なほど暴露するもののようにも思われます。『モードの迷宮』は、ファッションの問題を導入としつつ〈わたし〉という存在がどのように生成されるのかという問いへ言及するものであり、詩的定型が論の本筋に取り上げられることはありませんが、さきに述べたような定型のかたち、ふるまいを考えたとき、定型という規則が『モードの迷宮』内で取り上げられる衣服の性質とよく似た特徴を持つように見えてきます(論の中身にほとんど現れないはずの「詩」が、文中で何度か例えとして登場することは示唆的です)。そしてこの本は、短歌における〈わたし〉の成立に対しても思考の足掛かりとなるでしょう。モードという表象から形作られる〈わたし〉への考察は、短歌という言葉から立ち現れる(ように見える)〈わたし〉を考えるうえで十分役に立つと思います。   ③ロラン・バルト『明るい部屋』 有名な書物ですが、哲学や批評にとらわれない「読み」の楽しみを体現している文献として、あえて改めて取り上げさせていただきます。先のふたつの文献は短詩型へ接続できるような理論が見て取れるということがここに取り上げた理由のひとつでしたが、『明るい部屋』はそれらと異なり、ある理論を整理し語るのではないところをめざして書かれた書物です。著者は一章の終わりに、それまで自身が組み立ててきた理論を「前言取り消し」し、写真への新たなアプローチを開始してしまいます。その「前言取り消し」を含めて一冊の本になっているというところに、『明るい部屋』の特異性があります。 バルトは自身について「あらゆる還元的な体系に反発する」人物であり、体系の援用によって自身の書き物が還元と非難に傾くたびに「体系からそっと離れてよそを探し、またちがったふうに語りはじめるのがつねだった」と語りますが、短歌において歌会が楽しまれるのはそこが「よそを探す」場であるからかもしれません。批評や理論がひとつに固定されず自由であることが「読み」の可能性なのだということを知らしめてくれる書物です。 これに関連して、映画を読む文章としてわれわれに有益だろうと思われるのがアンドレ・バザンの『映画とは何か(上・下)』です。映画と映画観客、映画と戦争との関係にも言及しながら分析を行っており、テクストとコンテクストとのどちらもないがしろにしない彼の文章は、読みの一例として他にない光を放っています。   追加でいくつか挙げさせていただくと、読みの教科書となるものとして渡部直己『私学的、あまりに私学的な 陽気で利発な若者へおくる小説・批評・思想ガイド』や松本和也の『テクスト分析入門 小説を分析的に読むための実践ガイド』などがあります。丁寧かつ体系的にまとまっているため、批評や読み の実践にとまどう方にとってはとても便利でしょう。ただしこれらについては、多少テクスト分析に偏ったものであること、教科書的な道すじがあらかじめ敷かれていることの二点を理解したうえでお読みいただくとより有意義だろうと思います。 最初に述べたように、ここまで短歌以外のものを読もうとする文献を挙げてきましたが、瀬戸夏子『現実のクリストファー・ロビン』は数ある短歌評論の中でもとりわけ中身の詰まったものであり、特に「「テーブル拭いてテーブルで寝る」(雪舟えま)のは?」、「穂村弘という短歌史」、「私は見えない私はいない/美しい日本の(助詞の)ゆがみ(をこえて)」などは、歌の読みをいじくりまわすのではなく、読みの中からある企みを浮かび上がらせる稀有な短歌評論ですので一読をおすすめします。 また、Y・トゥイニャーノフ『詩的フォルマリズムとはなにか ロシアフォルマリズムの詩的理論』は詩的言語に関する理論ですが、読んでみると句切れや字あけ、韻など短歌に近いものが考察されています。「読み」というよりは「批評」に関連した書物ですが、短歌を題材に文章を書く上で必ず役立つだろうということで紹介させていただきます。  …

現代短歌のキーワード「歌評」/安田直彦

本稿は、短歌評論を書くひとのために「歌評」についての重要文献を提示することを目的とします。 しかし、数多ある文献のなかの、いったいどれが「重要文献」なのでしょうか。 このような問いにはただちにいくつかの反論が想定できます。古くは藤原定家『定家十体』から、近年では穂村弘『短歌の友人』まで、古典と呼びうる歌論はいくつもあるではないか。さらに最近まで考慮しても、総合誌などで話題になったトピックはあるのだからそれを紹介すればいい。そもそもなにが重要かを調査するのが執筆者のおまえの役目だろう……。 そうなのです。 その「なにが重要か」の判断こそが、現在最も困難であり、それゆえ歌評について考える際に避けて通れない最重要ポイントである。ゆえに紹介する文献も、資料そのものの重要性の判断にまつわるものとする。 これが私の本稿における結論です。 詳しく述べます。 現在の歌壇においてアーカイブとアクセシビリティが無視できない問題であることは直近に発表された『短歌』誌上の睦月都の時評においても指摘されています。 現状の短歌や評論、コミュニティへのアクセシビリティの低さは、新規参入を阻害し、既存読者・評者へのハードルも上げている。「読む」が難しいために「書く」ができず、結果として書き手の層がどんどん薄くなっているのが現状だ。 睦月都(『短歌』2019年7月号 角川文化振興財団 kindle版p.190) 私は上記に全面的に賛成します。ただし、睦月の文章について私はひとつ論点を付け加えたいと思います。この時評ではアーカイブ(保存記録)とアクセシビリティ(情報へのアクセスしやすさ)が問題視されていますが、論文を集めたことがある方ならばもうひとつ気になることがあるかと思います。インパクトファクター(被引用数)です。 要は情報の質です。 アーカイブとアクセシビリティは情報の量に関わる問題です。言いかえれば、現に保存されている情報の量と手にできる情報の量です。しかし、それと同等に重要なことがあります。手にした情報が質的に信頼できるか、ということです。 はじめに提示した反論に答えるならばこうです。古典と呼ばれるものから、現在進行形で書かれているものまで、歌論は量的には十分にあるでしょう。しかし、それらの質的な信頼性を判断できるかと言えばまったく別です。たとえば子規の「歌よみに与ふる書」にせよ、茂吉の「短歌における写生の説」にせよ、現在の視点から説得的な歌論かと言えばそうではありません。評価の定まっていない現在の歌論においては況やです。今必要なのは歌論を質的に判断する能力なのです。 前置きが非常に長くなりました。本稿では上記の考えに基づき、歌論の質を判断する能力に資する文献を「歌評」のキーワードにおける重要文献とし、紹介します。 先に述べますが、いわゆる歌書は一冊も挙げていません。 ①伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』 本書の第4章「『価値観の壁』をどう乗り越えるか──価値主張のクリティカルシンキング」は短歌問わず芸術について価値判断を行う際に私がまずおすすめしたい文章です。 価値主張のクリティカルシンキングに必要だとして著者が挙げる4つの視点、  (1)基本的な言葉の意味を明確にする。  (2)事実関係を確認する。  (3)同じ理由をいろいろな場面にあてはめる。  (4)出発点として利用できる一致点を見つける。 これらを守るだけで歌会での議論の充実度は格段に上がるのではないかと思います。 歌会で定義のあいまいな批評用語が飛び交っていて、なんの話かわからなくなったことがある方はぜひご一読ください。 ②佐々木健一『美学辞典』 「価値」「美的判断」「解釈」「批評」など歌評を行う上で必須の概念を含め、美学全般について知識を得ることができる良著です。各項目につき定義とその概念についての美学史的な概要、そして著者の考える論点が示されており、ふだん辞典に親しまない方にも読みやすいのではないかと思います。「批評」の項目の以下の記述は、あたらしい歌と出逢ったとき、頭に浮かべるようにしています。 前衛が引き起こす第一の問題は、「これが芸術か」ということである。この疑念に対する第一の考え方は、古い基準を応用解釈によって新しい現象に適用し、「これも他と同じ芸術である」と主張することである。しかし、この応急策は早晩通用しなくなる。そのときには、芸術の概念そのものを問わざるをえなくなる。…