Month: April 2020

「川を観る会」によるマーサ・ナカムラ『狸の匣』読書会

川を観る会 第一回読書会 2019年7月6日 マーサ・ナカムラ『狸の匣』(思潮社・2017年)について 参加者(五十音順) 伊波真人 小澤裕之 町屋良平 山﨑修平   マーサ・ナカムラさんの『狸の匣』という詩集についてです。 小澤   じゃあ、僕が一番畑違いなので、最初に感想言っていいですか。二年前でしたっけ、(このメンバーで)ルノアールに集まって、マーサ・ナカムラさんもいらしたとき、彼女から小冊子を頂戴して、そこに入っていた「東京オリンピックの開催とイナゴの成仏」を読ませていただいたんですね。そのとき、これは小説だと聞いた記憶があって。勘違いかもしれませんけれど。あと、去年の話ですけれど、蜂飼耳さんとお会いする機会があって、「マーサ・ナカムラさんと話したことあるんですよ、マーサさんの小説も読みましたよ」って、蜂飼さんに言ったら、(蜂飼さんが)「え、彼女小説も書いてるの」って(返したので)僕が、「東京オリンピックの開催とイナゴの成仏」って言ったら、「それは詩よ」と。「(それが収録されている)『狸の匣』を読んで御覧なさいよ」と。で、今回ようやく読んでみて、二年前にもらった小冊子の「東京オリンピックの開催とイナゴの成仏」と読み比べてみて、やっぱり小説っぽいなと。そういう意味で、詩と小説の境目がどこにあるんだろうなというのが、一番最初に思ったことですね。「犬のフーツク」もそうですし、「背で倒す」、これも小説っぽいなと思ったり。ただ、蜂飼さんは詩として認識されていたので、どこかに境目があるんだろうなと。あと、(『狸の匣』について面白いと)思うのは、(マーサさんの)時間の感覚のことなんですけど、そこは敢えて触れずに、「犬のフーツク」における言葉遣い、というより比喩について。9ページの後ろの方の、「漬け物石くらいの高さしかないようだ。」というのが、この詩集を読んだとき、一番最初にピンときた表現でした。漬け物石って、重さとか、あるいはせいぜい大きさとか、その程度の比喩としてしか使われないと思うんですけど、ここでは高さの比喩として使われていて、面白いですね。物の別の見方のようなものを示した感じがして面白かったですね。他にも、印つけてきてないですけれど、思いがけないなっていうのがあって。普通の言葉なのに、普通に使われる比喩なのに、使われ方が違うというのが面白かったですね。 山﨑  すごく重要な示唆というか指摘だったと思います。詩であるのか小説であるのかは誰がどのように決めるのかというのは書き手もわかっていない。 小澤  外国の詩だとわかりやすいですよね。 山﨑  韻律があって。 小澤  韻律があって、韻を踏んでっていうのが。 町屋  マーサさんの詩が小説のようでもある印象に映るというのには、いくつか要因があると思うんですけど、鉤括弧内の言葉がフィクション的な牽引力を持っているというのが一つと、あとはマーサさんの詩には比較的導入があるというのが一つで、それにより物語らしきものがあることが大きいと思います。それらのものがあると、人は小説っぽいと思うのかも。一方、先ほど小澤さんが言っていて面白かったのは、「漬け物石くらいの高さ」の比喩ですけど、これがもし小説の中に入っていたら逆に、詩的な比喩だなと言われる気がするんですね。ある種の接地点になっているように思います。小説らしさと、詩らしさとの接地点というのは、マーサさんが現代詩手帖に投稿されてたころに詩を発表されていた方の何人かが共通して持っていた記憶があって、そこの接地点の提示というのは、おもしろい指摘だなと思いました。定義しづらさというのは詩より小説の方が大きいと思いますし、よくそう言われている気もします。だから小説っぽい詩だなと人が思った時に、定義しづらいのは詩のほうではなくて、小説の方かもしれないとわりと思います。強い描写とかがあって、これが小説の中に混じっていた時に、しっかり受容されるかっていうと、あまりにも強いイメージの言葉があるなっていうのはこの詩集の中に幾つかあって、小説の中に混じっていたらうまく考えられないかもしれないような塊というのがあって、蜂飼さんがおっしゃっている意味はただしくはわからないけれど、ある一つの強度においてとても詩らしい詩だというのも同時にあったと思います。 小澤  全然関係ない話で恐縮なんですが、後期の宮崎駿においては、今の町屋さんの言葉で言うところの詩の強度みたいなものが、イメージの強度として現れているんですよね。特に『千と千尋の神隠し』以降がそうですが、よりはっきりと現れてくるのは、『ハウルの動く城』以降ですね。明らかにイメージが強烈すぎて周りと浮いているんです。周りから突出しすぎていて、それで壊しちゃってるんですよね、映画を。そういうのが宮崎駿の後期の特徴かなと。で、他の人も思っているかもしれないですけれど、それって詩に近づいているということなんじゃないかと。そういう意味では、今の町屋さんの言葉は腑に落ちましたね。詩の強度とか、イメージの強度が強すぎると、小説や映画の中で違和感あるっていうのは、その通りだなと思います。 町屋  一番これは強いなと思ったのは、さっき挙げてくれた「背で倒す」。「背で倒す」の二段落目の、「山に木こりの名人がいて、背幅程の杉を好み、杉に背を向けては『ぶるんぶるん』と水を振り回した。それから三方に刃をいれて背で倒した」というのは、イメージ可能なのかっていうのが、結構ここが強いと思いまして。日常言語の手つづきをしっかり省いていかないといけない。一般性に迂回する素振りがない。そこがすごいところで、小説だったらどうやってもここからひらいていかないといけないのかもしれないです。こうした文をひらかずに入れられるというのが詩の一つの……。 山﨑  「開く」というのはどのような意味ですか。 町屋  もうちょっと描写の注釈が必要になってきて、それが物語や登場人物などと絡んできて、そこに対しての思考が入るかどうかというのが肝になってくると思います。ごく単純にいうと、広い意味で反復してしまうと思います。…