川を観る会 第一回読書会 2019年7月6日

マーサ・ナカムラ『狸の匣』(思潮社・2017年)について

参加者(五十音順)

伊波真人

小澤裕之

町屋良平

山﨑修平 

 マーサ・ナカムラさんの『狸の匣』という詩集についてです。

小澤 

 じゃあ、僕が一番畑違いなので、最初に感想言っていいですか。二年前でしたっけ、(このメンバーで)ルノアールに集まって、マーサ・ナカムラさんもいらしたとき、彼女から小冊子を頂戴して、そこに入っていた「東京オリンピックの開催とイナゴの成仏」を読ませていただいたんですね。そのとき、これは小説だと聞いた記憶があって。勘違いかもしれませんけれど。あと、去年の話ですけれど、蜂飼耳さんとお会いする機会があって、「マーサ・ナカムラさんと話したことあるんですよ、マーサさんの小説も読みましたよ」って、蜂飼さんに言ったら、(蜂飼さんが)「え、彼女小説も書いてるの」って(返したので)僕が、「東京オリンピックの開催とイナゴの成仏」って言ったら、「それは詩よ」と。「(それが収録されている)『狸の匣』を読んで御覧なさいよ」と。で、今回ようやく読んでみて、二年前にもらった小冊子の「東京オリンピックの開催とイナゴの成仏」と読み比べてみて、やっぱり小説っぽいなと。そういう意味で、詩と小説の境目がどこにあるんだろうなというのが、一番最初に思ったことですね。「犬のフーツク」もそうですし、「背で倒す」、これも小説っぽいなと思ったり。ただ、蜂飼さんは詩として認識されていたので、どこかに境目があるんだろうなと。あと、(『狸の匣』について面白いと)思うのは、(マーサさんの)時間の感覚のことなんですけど、そこは敢えて触れずに、「犬のフーツク」における言葉遣い、というより比喩について。9ページの後ろの方の、「漬け物石くらいの高さしかないようだ。」というのが、この詩集を読んだとき、一番最初にピンときた表現でした。漬け物石って、重さとか、あるいはせいぜい大きさとか、その程度の比喩としてしか使われないと思うんですけど、ここでは高さの比喩として使われていて、面白いですね。物の別の見方のようなものを示した感じがして面白かったですね。他にも、印つけてきてないですけれど、思いがけないなっていうのがあって。普通の言葉なのに、普通に使われる比喩なのに、使われ方が違うというのが面白かったですね。

山﨑

 すごく重要な示唆というか指摘だったと思います。詩であるのか小説であるのかは誰がどのように決めるのかというのは書き手もわかっていない。

小澤

 外国の詩だとわかりやすいですよね。

山﨑

 韻律があって。

小澤

 韻律があって、韻を踏んでっていうのが。

町屋

 マーサさんの詩が小説のようでもある印象に映るというのには、いくつか要因があると思うんですけど、鉤括弧内の言葉がフィクション的な牽引力を持っているというのが一つと、あとはマーサさんの詩には比較的導入があるというのが一つで、それにより物語らしきものがあることが大きいと思います。それらのものがあると、人は小説っぽいと思うのかも。一方、先ほど小澤さんが言っていて面白かったのは、「漬け物石くらいの高さ」の比喩ですけど、これがもし小説の中に入っていたら逆に、詩的な比喩だなと言われる気がするんですね。ある種の接地点になっているように思います。小説らしさと、詩らしさとの接地点というのは、マーサさんが現代詩手帖に投稿されてたころに詩を発表されていた方の何人かが共通して持っていた記憶があって、そこの接地点の提示というのは、おもしろい指摘だなと思いました。定義しづらさというのは詩より小説の方が大きいと思いますし、よくそう言われている気もします。だから小説っぽい詩だなと人が思った時に、定義しづらいのは詩のほうではなくて、小説の方かもしれないとわりと思います。強い描写とかがあって、これが小説の中に混じっていた時に、しっかり受容されるかっていうと、あまりにも強いイメージの言葉があるなっていうのはこの詩集の中に幾つかあって、小説の中に混じっていたらうまく考えられないかもしれないような塊というのがあって、蜂飼さんがおっしゃっている意味はただしくはわからないけれど、ある一つの強度においてとても詩らしい詩だというのも同時にあったと思います。

小澤

 全然関係ない話で恐縮なんですが、後期の宮崎駿においては、今の町屋さんの言葉で言うところの詩の強度みたいなものが、イメージの強度として現れているんですよね。特に『千と千尋の神隠し』以降がそうですが、よりはっきりと現れてくるのは、『ハウルの動く城』以降ですね。明らかにイメージが強烈すぎて周りと浮いているんです。周りから突出しすぎていて、それで壊しちゃってるんですよね、映画を。そういうのが宮崎駿の後期の特徴かなと。で、他の人も思っているかもしれないですけれど、それって詩に近づいているということなんじゃないかと。そういう意味では、今の町屋さんの言葉は腑に落ちましたね。詩の強度とか、イメージの強度が強すぎると、小説や映画の中で違和感あるっていうのは、その通りだなと思います。

町屋

 一番これは強いなと思ったのは、さっき挙げてくれた「背で倒す」。「背で倒す」の二段落目の、「山に木こりの名人がいて、背幅程の杉を好み、杉に背を向けては『ぶるんぶるん』と水を振り回した。それから三方に刃をいれて背で倒した」というのは、イメージ可能なのかっていうのが、結構ここが強いと思いまして。日常言語の手つづきをしっかり省いていかないといけない。一般性に迂回する素振りがない。そこがすごいところで、小説だったらどうやってもここからひらいていかないといけないのかもしれないです。こうした文をひらかずに入れられるというのが詩の一つの……。

山﨑

 「開く」というのはどのような意味ですか。

町屋

 もうちょっと描写の注釈が必要になってきて、それが物語や登場人物などと絡んできて、そこに対しての思考が入るかどうかというのが肝になってくると思います。ごく単純にいうと、広い意味で反復してしまうと思います。

山﨑

 それは読者を意識してということですか。作品として?

町屋

 そう言われると、はっきりとこうとはいえないですけど……。

小澤

 そこに注釈がないと物語にならないということかなと。

町屋

 確かに……。すごいそうですね。読者であるとか作品としてどうであるとかなどの認識がくっついてしまって、ボヤボヤしたような領域で、もう勝手に小説のほうでそうしてしまうというか、そうなってしまうと思います。

山﨑

 そこを省くと作品として成立しなくなるということですか。小説として成り立たなくなるということですか。

小澤

(強度のありすぎる描写は)小説としては取っちゃった方がいいんじゃないですかね。

町屋

 おそらく、文章を重ねていくうちにそうなっていくと思います。注釈的になっていかざるをえない。これが先ほどの反復という意味です。それは詩人が小説を書いたものでも基本的にはそうなっていると思います。もちろん例外はいくつかあります。山﨑さんはどうですか?

山﨑

 どうだろう……。なってるかな。

伊波

 (言葉の連なりの)ジャンプ力が高い。ジャンプが許容されやすいのが詩というのが言えるかもしれない。

山﨑

 そうですね。詩的飛躍する言葉をどこまで担保するかという時に、小説の方が丁寧というのか、手元に届きやすいというのか。

町屋

 ある意味曖昧と言えるかもしれない。

小澤

 小説の話ですけれど、強すぎるイメージの言葉を出すのは、小説のテクニックとしてはダメなことですかね。あまりにも強いとそのあとがぼんやりしてしまうじゃないですか、読者が。筋とかもぼんやりしちゃったり。だけどその直後にすごい大事な展開があったりすると、それは小説のテクニックとして、あまり良くないですよね。

町屋

 構造的に言葉を犠牲にするという選択肢は常にあります。基本的に小説というのは曖昧な定義で成立しているものなので、その作品が成立していたら成立ということになってしまうんだと思います。そうしてその作品が成立していなかったら、そういう主観が働いたときにはじめて、そこに要因が求められる可能性が高くなる。

小澤

 結果先行ということですね。野村監督じゃないですが、「負けに不思議の負けなし。勝ちに不思議の勝ちあり」

一同

 笑

山﨑

 ウイリアムバロウズの『裸のランチ』もこれは小説ですって言えば小説として読みますものね。

町屋

 あれは、小説として読みました確かに僕は。

伊波

 マーサさんの詩を読み解くうえで二つの軸があると思っていて。空間という軸と時間という軸があると思うんですよ。これまでの詩って空間軸でのジャンプ力の高い表現が多かったと思うんですけど、マーサさんの場合は時間軸にも広がっているのかなって思ってて、それもむちゃくちゃジャンプ力が高い。民俗学的な描写と、例えば東京タワーみたいに現代的なものがシームレスにジャンプしあってるんですよね。そこがマーサさんの特徴かなって思いました。マーサさんにはこういう風景が、狸とか見えてるんじゃないのかなって、最初読んだ時に。だけど後で「小説を書くように詩を書いている」というのをどこかで読んだ時に、あっ、そうなんだなって、思った部分があって。最初は僕は空想であってもマーサさんの中には見えているものとして、読んでいて、(作者が見えているものではないかもしれないということが)それはショックでしたね。

山﨑

 見えているんじゃないですかね。

伊波

 そうそう。手触りというかね、マーサさんには見えているような気がする。

町屋

 その、見えているフィクショナルなものの手応えがどれだけか、というかそのグラデーションって面白いですよね。

山﨑

 文明社会化される前の原始的である人間の営みをマーサさんには見えている、だからそれはイタコ? シャーマンというような。

伊波

 シャーマン。マーサシャーマン説。

町屋

 要するにシャーマン的なものであるかもと思っていたら、どうやらそうではないかもしれないということですよね。

伊波

 今の山﨑さんのお話だと現代的なモチーフ、テレビだとか、東京タワーとかを見ると、マーサさんの中でマーサさんのフェチシズムが民俗的なところまで飛んじゃう、太古の話まで幻視してしまうようなものがあるんじゃないかな。

小澤

 一般論ですけど、詩や小説書いている人の中には本当に幻視しちゃう人っているんですか。

山﨑

 いると思います。

伊波

 葛原妙子さんとか。

小澤

 アニメーションの話ですが、「この監督の目を通して見る景色は綺麗だ」とか、「この監督はいつもこんなに綺麗な景色を見ているんだな」とか、非常に素朴な感想ってありますよね。でも、僕はいつもそれを疑問に思っていて、本当に(監督は)見えているのかなって。単にそう見たい景色を描いているんじゃないかな。現実の景色ではなく、希望の景色を描いているんじゃないかなって思ってるんです。

山﨑

 それは作家性の話ですよね。作家の実生活と作品は違うものなので。作家は作品を成り立たせるためにテクニカルに、作品があるべき形に構築していくということだと思います。

町屋

 僕は今の話とても興味があるんですけど、マーサさんの話に戻ると、これ語義が曖昧なものだと思ってお話伺ってるんですが、シャーマニズム的に見えているものなのか、フィクショナルな技巧で作っているものなのかという二項対立を無にするような可能性を感じます。僕は見えちゃっているものを書いているという感覚の方が意外で、その意味ではマーサさんのこの詩集への関心がさらに深まりました。作家が幻視しているという状況がどういうものであるのかっていうのが曖昧で、僕自身もあまりよくわかってないのですけど、僕が感覚的にできていると思っていた部分にこそもっとも奥行のある技巧がくっついているかもしれない。

小澤

 幻視するというか、ちょっと言葉はアレなのですが、病んでいる人が幻覚を見たり、あるいは普通に夢に観たものを書いたりすることは、もちろんあるとは思うんですけれど。でも、本当に幻視したものを書いちゃうのが、良く言うと天才で、悪く言えば変な人、という考え方は、昔からどうなのかなって思っていて、やっぱりある程度考えて、自分の頭を通過させて書いているという方を、採りたいというのがあって。例えば夢に観たものを書くにしても、頭の中で整理して書くわけじゃないですか、今観ているわけじゃないから。

町屋

 結局書いている時と、なんにせよ書かれたものを体感した時って時間のズレというのがあって、そのズレについて創作者はそれぞれ自覚的であれ無自覚的であれ思考しているはずなんですけれど、幻視しているものをそのまま書いているってなった時に、そこの思考をどうやって操作しているのかって問題は気にかかります。実際に幻として観たものを書いたとしてもそれって技巧なわけじゃないですか。だからその技巧性の話をシャーマニズムで全部ゼロにしてしまうっていう操作もあるかもしれないんですけれど、批評から見ると「見たままを書く」というのは相当おそろしいことですよね。かえって操作性が高いので。そこに潜む思考の手続きというのはぜひ知りたいので、さっきのマーサさんの「小説のように書いている」というのは僕にとっては興味深い発言でありました。

伊波

 自分の実作に引きつけて話すと、僕がマーサさんの癖に気付いたのは、自分もそういう作り方をしているから。例えば(コップに)泡が付いているとしますよね。そこからダイバーが泡を吐き出すというように、遠い場所へ自分の中で結びつける癖があるんです。それってマーサさんがやってることと近いのかなって気付いたんです。

町屋

 なるほど、五感を用いて世界をジャンプしている感じなのでしょうか。小説って(ジャンルの中で)「これでもない」という中で最終的に残るのが小説なのかなと思ってやっています。実は逆のイメージを持っている人って結構いらっしゃるかもしれないんですけれど、小説ってのは物語があって、鉤括弧があって、起承転結があって、みたいなあらゆる条件付けって、そうじゃないのもいっぱいあるじゃないですか。わりと「そうじゃない」っていう否定性が小説らしさなのかとすら思います。

小澤

 歴史的にはそうですよね。小説の成立って遅いので。

山﨑

 詩が一番始めですものね。

小澤

 そうですね。

町屋

 序列とかどっちが上とかではなくて、あらゆるジャンルに破調的なものがあるとしても、形式への批評性があるはずなので、たとえば詩に批評性を持っていて、かつできたものを「小説です」ということはあるのかもしれないですけど、小説に批評性があってできたものを「詩です」というのは難しいかもしれないと思っています。

伊波

 情報の濃度の問題かなって思って。例えば一つの短歌の連作と、一篇の小説って、僕の中では情報量が同じくらいな気がしていて、だけど小説の場合は、それを詳細に記述したもので、でも詩とか短歌の場合は描写していない部分も、表れていない部分も文字の奥にも埋まっているものがあるっていう違いがあるんじゃないかなって。

小澤

 本当、僕もその通りだと思います。僕が詩を読めない理由ってそれなんですよね。読む時間がわからない。早く読もうと思えば読めるけれど。どう読んでいいのかわからない。

伊波

 解凍するしかないんですよね。解凍しながら読むからそれは時間がかかってしまうのかなって。

町屋

 短歌と小説は近さを感じていて、連作を読むと短編小説一本って思うし、歌集を読むと長編小説一本って思うことが多いです。等価性があって、逆にその等価性を利用して情報量を操作しているような歌集もあると思っているんですが、志向性においてはちかしさを感じます。

山﨑

 そうですね。では、詩をリライトしたら小説になるのかってなったら、ならないんじゃないかなって僕は思うんですよね。

町屋

 うん。詩と小説は違うなって思います。小説と短歌の近さは関係性の文学であるという点はあるかもしれないです。山﨑さんの中ではマーサ・ナカムラさんの独自性ってどこに感じますか。

山﨑

 言葉に対する捉え方、ここでこういう言葉を持って来るんだっていう、ここにこの言葉をこう並べるんだっていうところに、衝撃を受けたんですよね。「年末になると、毎年子狸たちが家に疎開しに訪れる。」この「大みそかに映画をみる」の書き出しのところとか、書き出しだけでグッと掴まれるところがあって、過去の蓄積された「私たち」を見ている、見てきた、見てきたわけはないけれどそう言い切れるものを書いている、柔らかく言うなら懐かしさなんですけれど、そこに収まりきらない恐怖のようなもの。

町屋

 自分も同じような感覚を持った気がします。生まれていない頃の風景や五感などは他者のテキストなどから取り寄せていると思うんですけれど、再現して一緒に見てくれる能力があるとも思いました。郷愁では回収しきれないものがあると思います。小さな箱のようなものが出てきて、その中で水面があって、底があって、そういう無限構造のようなものをやっている感じは小説にもときどきあるんですけれど、マーサさんの場合は覗き込んだところから、下からも覗き込まれているみたいなものがあって。箱の中のこの世とあの世の接地点、「無限の限定性/限定性の無限」のようなものの枠組みがあるのが面白いなと思っています。見ていると同時に見られているという、外部のようなもの、手触りがとても重要だなと感じました。