Category: Tanka

Ambiguity/北虎あきら

降る雪をおぼえず雪の降っていたことをこころの母神に見せる てめえだろ   の にぶい電車を 横切らすうちに 不快ですまでにはなった おまえはピアスだらけの女を選ぶよと言われたときに光る水星 靴下のくるまりたがる苦しさを冬の袋小路に嘔吐いた ねむるまでゆれるからだの 凪いでいる海をわかるのはかもめだけ 小気味よく撮ってくれてた軒先のパラパラ漫画みたいにぼくだ 伏線の回収のためにうたう歌 あなたが握るならとおくコーラス 春がすみ澄みきるまでをまなうらのどうしても忘れる飛行船 ほろぼす、と決めてからやる仕事にはChillLo-fiJazzHopでちょうど 間奏のなかをとどかなかったからあかるいテロップに目をやった 思い出すようにおぼろの遠くから立体になる東京タワー 公園通りゆけばこの世は名前からわからなかった種類の楽器 幽霊の話がしたい Googleにゆうぐれをたくさん見せてもらう 動かないまでもことばを揺らさねばブランコの底に水溜まり 浴槽の水面から目をゆるめるとおおきくなるほくろ 腰骨の 北虎 あきら会社員。誠実と素直。

ガードレールの群れで死にたい/溺愛

身軽な身として飛び回る、小鳥とは別の骨の飛びかたとして 揶揄をする 春の野の原進みつつ蓮華が我の揶揄だと思う 「遺体のように見えるポスター」 普通なら殴るよりも走るよね 春の野の原ゾンビだけがそこにいるなら ここへ帰ろう。喉元に花が咲くならそこに白きナイフを おお願い あるが如く の漢字の由来がわからない。女と口ってちょっとウケるね モールス信号始めよう、--・-- ・- --・-・ ・-・-- -・--・今適当に言った 鈍器すらいらないそれは自死でない。自死を選べるものの選択(としての手段) ぼくたちのしりとりはすこしへんだけど君の尻尾を摑んで泣かせる 少しだけ優しい人だねあなたとは名前に自我があるうちゆるそうらやましがれきみにころされたのだぞぼくは 唐突に電球色が現れて、太陽なのだと君に名乗った 愛してね、君の感情そのものが春の名だと教えたあなたを憎んでね、僕の名前のそのものが春の名だとか教えた君を 嫌われた理由があると信じてる嫌われるそれに名前を教えてあげつつ と、思うでしょ?それがぼく。 あ る がとう。左利きでAB型で乙女座ですらない君が僕の名前を持つことに 溺愛殺すぞと言われれば波のよう

写真と短歌へのエッセー/村本有

大学入ったころから短歌を作り始め連日夢中になっていたのだが、いつの間にか写真も撮るようになっていた。それは空き時間に行っていたサークル部屋の積読コーナーのおかげなのだが、そこにはWolfgang Tillmansの写真集が置いてあり、彼の撮る写真を見るたびに不思議な気持ちがした。見ず知らずの景色の写真なのに、どうして私は共感し、そしてポエジーを感じているのだろう? と。 1. 脱プライベート化された日常写真 短歌と写真を同時並行して作っているうちに、短歌がもつポエジーを写真でも提示できないかと考えるようになった。ポエジーは解釈が膨大なので、ここでは仮に私が短歌で挑戦していたポエジーに限定させていただくと、「あるイマージュの提示あるいはその連続による動画的情景と、物語性を秘めた感情の融合」とする。 短歌と写真の違いの一つにイマージュの見せ方、そしてその共有性が挙げられる。 まず短歌で想起されるイマージュは継起的である。短歌では読み進めていくうちに読者に情景が想起され、そこにポエジーの余韻を味わうこともできるだろう。しかしながら受容者の数だけイマージュは解釈可能であり、また受容者のいる時代、そして経験によって大きくイマージュは変容してしまう。そのことが、短歌が普遍性を確立できている理由の一つであることは承知している。しかし今ここで言いたいことは、短歌では作者・受容者間でイマージュのある程度の共有は可能でも限定は不可能ということだ。 一方写真は理論上全ての情報を、全イマージュを一つの位相に表すことができる。そして写真は必ずイマージュを限定し、どの時代でも、どのような経験をしようと、受容者と作品で出発点の共有が可能だ。 しかしながら言い方を変えるならば、写真は強制的にイマージュの限定を行うため、短歌のようにイマージュやポエジーをある意味受容者の経験に頼ることはできない。イマージュの限定はできても、受容者にとって誰しもが経験したことのように思わせることは難しい。すなわち写真を脱プライベート化しつつ、そのうえでプライベート的にしなければ写真芸術として成り立たないという逆説的な問題があるのだが、Tillmansの写真はまさしくそれを実現した写真だった。身近な日常を撮りつつもプライベートの匂いを残さないことで、限定されていたイマージュは全受容者の個人的経験に頼ることができ、あとはどのような物語性があるのか、どのようなポエジーがあるのかは読者の楽しみとなる。 私は普段家の中や身の回りを撮ることが多いが、そのときはプライベート写真とならないようにすること、また常にカメラを携帯し、些細な気づきを見逃さないことに気を付けている。そのようにして撮った写真をまず紹介させて頂きたい。 2. 脱イマージュ共有化 脱プライベート化による受容者の経験に頼ったポエジーの発露、それはイマージュの共有化を目指したところから始まったと考えている。 しかしながら数多くの写真家の写真を見ていると、イマージュの共有化を目指しているとはいえない写真も多い。しかしながらそれらの写真には訴えるもの、それはときには感情であり、ときには物語性であるのだが、それらがあまりに力強いため受容者はまるで同じ体験をしたかのような感覚を得る。「イマージュが受容者にとって共有化されていなくても、感情あるいは物語性を即座に受容者へ同期する力」、それが写真の力強さと仮定するならば、力強さだけで写真芸術として成り立つのではないだろうか。 まず感情の同期について そして次に物語性の同期について 3. 脱記号 例えば階段の写真を撮ったとき、それは階段だとほとんどの人が認識すると思うが、いったんその認識を外れ、物体がもつ意味を解体することができるだろうか。そしてそのうえで新しい意味を見出すことはできるだろうか。 ある日偶然撮れた写真がそのような考えのきっかけとなり、全ては記号化されているなら新しく意味づけすることの面白さがあるのではないか、そしてそこにポエジーを絡ませることができるなら、私は写真で短歌的ポエジーを提示できるのではないだろうか? 1,2,3の挑戦がうまく働けば、私は写真で短歌できるのではないだろうか? 4. 最後に 今まで数年間写真を撮り続け、自分の挑戦してきたことをまとめさせて頂いた。今まで自分が「写真で何をしたかったのか」そして「写真で何がしたいのか」 そのことに自覚的になることが撮るうえでとても重要なことだと思っている。 短歌と写真は違うものだと思っていたが意外にも共通点は多く、それは私にとってかなり魅力的だった。なかでも最も重要と思われるものは、受容者にポエジーを想起させる力である。 写真で短歌できるのでは? と暴論を書いてしまったが、写真はイマージュを限定できるし、そのうえで短歌的な表現ができるなら私にとってこれほど嬉しいことはない。 この取り組みが今後どのようになるかは分からないが、新たな境位にたどり着けるのではないかとひそかに願っている。 ※写真は全て村本にて撮影 村本…