Month: May 2019

わからないけど、わかる、または「この私」の現代詩/根本正午

——インターネットで、ひとびとが傷つけあっている。はてしなく続く議論は、どこへもたどり着かず、消えることのない怒りがあちこちにたまり、、、をつくっている。その議題はさまざまだ。貧困、政治、いまだ不均衡な性差……だがそのいずれも「この私」とは何の関係もない。そう、思えてならなかった。 ◇ ◇ ◇ 2019年4月某日、iMacのディスプレイの青い光が、私の机に広がっている。詩書や資料を積みあげた机の前で、私は椅子の背もたれで体を回しながら、ツイッターのストリームを眺めている。まったく知らないひとびと、今後も会うこともないであろうひとびとが、理由と目的のわからない口げんかを延々と繰り広げる様子を横目に、立ち上がり窓を開ける。統一地方選にむけてだろうか、共産党の街宣車がスピーカーを大音量で響かせながら、どこかからやってきて、どこかへと去ってゆく。 新しくつくられるという詩のウェブサイト『crossover』の編集長・山﨑修平氏より依頼を受けて、現代詩についての論考を寄せてくれないかと頼まれたのが一月ほど前のことだ。それ以来、さまざまな資料を買いあさって考えてきたものの、じつのところほとんど一行も書けないまま、時間だけが過ぎていった。いまもこうして机の前の狭苦しい空間をうろうろと齧歯類のように歩き回り、ああでもない、こうでもないと頭を悩ませている。壁のあちこちに貼り付けてあるメモ書きも参考にはならない。締め切りは延ばしてもらったものの、これは再び延長を依頼したほうがいいのではないか……そんなことを思いながら、最近某所で知り合った若手詩人の、暗い表情のことを思いだしている。 ——正午さんは、なんで現代詩を書くんですか。だれも読まないものを、この世から意味があると思われていないものを、どうして書くんですか? 対価もないのに。ぼくらみたいな若手なんて、制度に上手いこと利用されて、やりがい搾取されるだけじゃないですか。正午さんは、それがわかってるし、わかってる立場じゃないですか? 執筆中は照明をつけないことにしている部屋は暗い。私はかれにどう答えたのだろうか。開いた窓の前に立ち、夜のふけた地方都市の町並みを眺める。4月も半ばをすぎて、桜はすでに散り、梢の緑の葉が風に揺れているのが見える。街の若者たちはどこかへ姿を消し、ほぼ後期高齢者たちが住むようになった旧公団住宅の建物は、夜がまだはじまったばかりだというのに、私の部屋以外ほとんどが消灯され、まるでゴーストタウンの様相を帯びている。 ふたたび、新たな街宣車がやってくる音が響いてくる。今度のそれは自民党の車のようだ。車がどこを走っているかはわからないが、内容を聞き取ることができない。窓枠に手を当て、暗闇のどこかの方角を眺めながら思う。いずれの街宣車も、自らにとって真剣な課題をそれぞれが訴えているはずだ。だが、聴く側にそもそも関心がなければ、そしてその内容が意味をもったかたちで届かなければ、それはすべて、ただただ小うるさいだけの騒音ノイズに過ぎないのだ。 ◇ ◇ ◇ 詩は、とくに現代詩は、世の中に関心を持ってもらえることのない少ないジャンルだ。なぜ2019年の(あるいは、ここ数十年の)世の中は現代詩に無関心なのか、という問いには、おそらく比較的簡単な答がある。それは「この私」と、何の関係もないことばかりが書かれている、そう読者に思われているからだ。 より具体的にいえば、2019年に生きている私たちにとって身近な話題、たとえば生活の中でのよろこび、いかり、かなしみ、つらさ、私たちをとりまく日本社会のどうにもならない閉塞感、硬直的な職住環境、村落的または学園的なるいびつな共同体、世代格差、貧富の差、安倍晋三やトランプといった政治家たちの嘘に虚言に美辞麗句おためごかし、性にまつわる差別、マイノリティとマジョリティの静かで苛烈な対立、労働し、組織の中で生きるということまたは闘うこと、下半身にまつわるグロテスクな実存や衝動、といった事柄などのことだ。全世界でインフラと化したソーシャルネットワーク上であたり前のように毎日熱心に話し合われていることが、現代詩にはいっさい出てこない——そう読者に思われているからだ。 インターネットの読者向けには、こう表現してもいいかもしれない。現代詩とは「いいね」や「わかる」を拒否しているジャンルなのだと。 ◇ ◇ ◇ 机の前に座って考えているうちに、また数時間が過ぎていた。現代の読者に関心を持ってもらうことができない、現代詩という器について考える。窓の外からは、聴いたことのない鳥の奇妙な鳴き声が聞こえる。それは原稿が書けない私を馬鹿にしているかのような間延びした声であり、どこか腹立たしい。 仕事部屋から少し離れた寝室では、2歳になった娘はもう家人に寝かしつけられ、熟睡しているはずだった。地方都市の夜は、とても静かだ。道路は真っ暗で、深夜に近くなると道路にはほとんど誰もおらず、都心のようにいつも誰かが通りすぎたり、酔っぱらって騒いだり、大声で歌ったりといったことはまずない。私は音を立てないように窓を閉めて、ディスプレイに映ったままの、真っ白な矩形の入力ページを眺める。 本稿の執筆者である私、根本正午は《千日詩路》という、現代詩専門の書評サイトを運営している。日本語圏では片手で数えるほどしかない現代詩の書評サイトのひとつだ。また、私は詩を書き、詩書の著作があり、特定の現代詩の組織などに所属し、詩のグループに所属し、内外の詩人たちと交友がある、のだが……。 率直にいって、「現代詩とは何か」という問い(おそらく『Crossover』の読者がもっとも知りたいであろう疑問)に答えることはできない。できないというよりも、それは問いの立て方が間違っており、詩との差異を考えたときにのみ、現代詩が照らし出され浮かびあがる構造になっているからだ。ふたつの差異に注目することによってお互いが成立しあう、と書いたら良いだろうか。「いいね」や「わかる」がある詩と、そうしたものを拒否している(かのように見える)現代詩と、ざっくりとした区分を想定してみてほしい。これは小説の世界で、大衆小説と文芸小説の違いについて考えるのと同じことだ(厳密な区分ができないことも同じだ)。 だがもちろん、間違った問いもあれば、物事の実像により近づくことのできる問いもある。私自身、上に書いた現代詩の書評サイトを昨年立ち上げたのは、現代詩に携わる人間として、現代詩とは何かという問いへの代替的オルタネイトな答を、自分の手で見つけたかったからだった。「この私」にとって、現代詩を書く意義とは何か、なぜ書くのか、なぜ書き続けるのか。そのためには、同時代に生きる詩人たちの作品を「読む」そして「再び読む」ということが必要だと考えたからだった。 話を少しずらして考えてみる。小説には、大きく分けて読み物としての大衆小説と、それと対置される文芸小説があるが、後者を読む読者は、主に何を求めて読書をするのだろうか? それは物語に織り込まれた、自分とはまったく無関係な、第三者の人生の相克を通じて、そこに自分自身の諸問題が照らし出されるのを感じるためだろう。その時読者は、虚構を通じてしか得ることのできない、自分固有の問題への理解への契機を得ることができる。そうした小説にめぐりあうことによって、「救われた」と思う読者は多いのではないか。 詩と現代詩を、上の関係になぞらえてみる。大まかなところで、そのふたつの区分があてはまる。そして私はその区分を、大まかなもの、あるいは曖昧なものに留めておくべきだと思う。「丁寧」で「細かい」定義づけや区分をしようとすればするほど、私たちはある陥穽にとらわれる。それは「文学とは何か」と問うことの不毛さによく似ている。だから勇気をもって、曖昧さの内側に留まろうということを思う。ラベルに何が書かれているかは問題ではなく、固有名詞をもった詩人の作品と向き合うべきなのだから。 一方、現代詩では「救い」や「この私」への経路は切断されている。共感は拒否され、理解はもまた退けられている。そういうジャンルであると考えているであろう数多くの読者の理解に違和感はない。それでは、そうした現代詩の作品を読む読者は、そこに何を求めているのか?——わからないことを、わかるため、と書いてみたい気がする。 ◇ ◇ ◇ ——つらいから書きます。世の中はそれをポエムと馬鹿にします。現代詩はえらいかどうかは知りません。わたしはここに、どうしようもない骨に、肉と、こころと、ことばをまとって生きています。生きさせられています。そのことを書きたい。書いたら、いけないんですか? ふたたび机の前で、依頼された原稿について考える。「2010年代の現代詩について」または現代詩そのものについて書いてほしいというのがそもそもの依頼だった。私は2010年代に発行された現代詩の詩集をできるだけ数多く集め、この一月ほどの間に読み込んできたが、おそらくそれらの詩集についてかたることは、インターネットの一般読者に向けて詩と現代詩の魅力について広く紹介してゆこう、そうした場をつくろうという野心的な試みをもって立ち上げられる『Crossover』の読者にふさわしくはないだろう、と思う。必然的に、後者の題材について選ばざるをえない。 個人的な思い、ということを考える。詩人としてではなく、作家としてでもなく、書評家としてでもなく、どこか安全な場所から現代詩についてかたるのでもなく、卑小で、ちっぽけな、労働者として、生活者としてかたらねばならない、ということを考える。 いまここに座って、この原稿を書いている私は、これを読んでいる読者のみなさんとまったく同じ、ただの卑小なる個であり、日本語を使ってものを考えている。つまり日本語を解する日本人と外国人と同一の所与の条件のもと、私は生き、考え、そして書いている。そこに違いはないはずだ。 個としてかたる。それは本音でかたるということ。ほんらいいうべきことを隠して、嘘八百をかたるみぶりに、私たちはみな心底うんざりしているではないか? マスメディアも、インターネットも、右をみても左をみても、個人的利益のためであることを隠して、おもしろくないものをおもしろいといってみたり、つまらないものを過剰にほめたたえたりする。そういうみぶりを取るさもしさに、私たちはみなうんざりしているのではないか? だがもちろん、ほんとうのことをかたっているかのような露悪的なみぶりも退けなければならない。2019年に生きる私たちはみな、ネットワークに氾濫するテクストによって、感情をいやおうなしに操作されてしまう場に閉じこめられているのだから。 ◇ ◇ ◇…

詩 連作/山田桃

あさ 揺れている私は雨腐ったむかしの街を探そうとしているなぜか色は豊かでそこ代わりに音はない風も吹かない匂いもない砂埃の舞った眼でそれを味わう自分がいる尊敬だよ、経緯を払おう生きにくいの体現者である窓を開いたときの風は優しかったかみさまはいるのか?それだけが耳に残っている骨や皮は変わらずわたしだけ私となり今こうして立っているやーいと叫ぶあの子たちはどこだ忘れることの罪を知るのである ひる 先ほど吐いたシチューが甘く豊かな道の散歩意味の無い情緒を引きずったまた忘れている私だきみのいる空がゆれるきみのいた床がにじむきみのいない風が冷えた局地的猛暑だあついあつい突発的スコールだみえないみえない飲み干した水に息を注いだ誰かに差し出したい気持ちになった よる 雑な乗り心地も気にならず膨らんだ茶袋は畳まれることを待っている車窓にちらついた疑心暗鬼汚い夜の本気が見えた気がした泣いたってひとり膝の感覚に陽が沈むアップルパイは冷えていたぱりぱりに焼きあがりやがってちくしょう、おいしそうじゃないかこういうとき嫌味なほどにりんごは私に甘いんだそんなきみの過去を思い出したそうでもないな揺れていてもひとり 山田 桃福岡出身芸術大学在学、ツイッター詩人。

A Moving Walk/南ひかる

I used to work in central Tokyo For many hours at a travel bureau. Home and work, back and forth, door to door. My office was on the…

Is Cyberpunk Dead? サイバーパンクは死んだのか/桜井夕也

港の空の色は、空きチャンネルに合わせたTVの色だった ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』 1984年、サイバーパンクが生まれた。 未だインターネットのない旧世紀、サイバー=仮想空間とパンク=荒廃した世界を掛け合わせた『ニューロマンサー』は一つの時代を画した。その後、無数のクローンに埋め尽くされるその時代、サイバーパンクと呼ばれるSFの一ジャンルが世界の最先端だった時代。 サイバーパンクは死んだのか? サイバーパンクは原理的に二つの要素からなる。その語「サイバーパンク」のサイバーは仮想空間を(今のインターネットと捉えてもらえれば想像しやすいだろう)、パンクは荒廃した世界観を表している。 『ニューロマンサー』は無数のクローンを生み出した。ブルース・スターリング、グレッグ・ベア、ルーディ・ラッカー、『エスケープ・ヴェロシティ』……。 その影響は日本の漫画やアニメにも波及した。代表的な作品は士郎正宗による『攻殻機動隊』(1989年)だろう。漫画『攻殻機動隊』は余白に膨大な注釈が付けながら、ネットワークや義体化、サイボーグ・アンドロイド・AIといったガジェットが頻出する。アニメ映画にもなったそれ(映画名『GHOST IN THE SHELL』(1995年))は世界中にマニアックなファンを生み出した。 1968年に刊行されたフィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を原作とした映画『ブレードランナー』(1982年)は仮想空間は出てこないものの、暴力的で退廃的で無国籍なその世界観はサイバーパンクに通じるものがある。人間に対し反乱を起こした4名のレプリカント(人造人間)たちを「ブレードランナー」と呼ばれる警察の専任捜査官が追う。そのブレードランナー(デッカード)自身もレプリカントではないか、などの疑惑を残しながら、物語はレプリカントとの逃避行に終わる。 90年代、インターネットの前景化とともに、サイバーパンクの先端性は薄れ、その役目を終えたように見える。 だが、1999年、突如として「それ」は現れた。 ウォシャウスキー兄弟による『マトリックス』がそれだ。 『マトリックス』については詳述する必要もないだろう。仮想空間で現実と疑わなかった世界がレッド・ピルを飲むことで、人間がカタストロフィ後の世界で機械にエネルギーを与えるだけの存在だったと知った主人公ネオは、物理世界ではあり得ないカンフー(ワイヤーアクションを大々的に用いた、エージェント・スミスの銃弾をネオがのけぞりながらよけるシーンが有名だろう)を用いて仮想空間の中で機械と闘う。 『マトリックス』は大きな波紋を呼んだ。サイバーパンクを知らない人たちがこぞって『マトリックス』を観、『マトリックス』について語りたがった。『マトリックス』を扱った論考本も多数出た。もはやサイバーパンクは一大ムーブメントとなっていた。 だが、ウィンドウズ98の登場やその後のインターネットの全面的な拡大とともに、『マトリックス』の世界観も日常的なものと化し、サイバーパンクは潰えたように思える。 事実、その後のゼロ年代やテン年代では目立ったサイバーパンク作品は出てこなかった。 サイバーパンクは再び死んだのか? 昨年公開された映画がある。『ブレードランナー2049』と『レディ・プレイヤー1』だ。 『ブレードランナー2049』は『ブレードランナー』の続編である。自らレプリカントである警察の専任捜査官「ブレードランナー」(K)が前作で生き残った反乱を起こしたレプリカントたちを追う。物語は終わっていない。ずっと続いていた。前作の主人公であるデッカードも、デッカードの恋人でありレプリカントでもあるレイチェルも、より深みを増し、深層化された世界で、ずっと生き延びていた。暴力的で退廃的で多国籍な世界観、ドローンや自動走行車などの最新のガジェットでアップデートされながら、それは「偽りの記憶を植え付けられた」主人公が愛を取り戻すまでの物語だ。いや、K=ジョーは最終的に愛を取り戻したのだろうか。少なくとも私はそう信じたい。 『レディ・プレイヤー1』は、VR(ヴァーチャル・リアリティ)が物語の核となっており、サイバーパンクと呼ぶことに抵抗があるかもしれない。だが、物語の核は「オアシス」と呼ばれるVR空間(仮想空間だ!)に、創始者であるジェームズ・ハリデー亡き後、5000億ドルの懸賞金を求め、彼の作った「イースターエッグ」を探すプレイヤー=アバターたちが日夜暴れている、という非常にサイバーパンク的といえる作品となっている。この作品は様々な過去の作品へのオマージュからも成り立っている(ちなみに筆者が好きなのは、主人公の仲間であり日本人であるダイトウの「俺はガンダムで行く」という台詞と覚悟である)。 冒頭の質問に戻ろう。 「サイバーパンクは死んだのか?」 それに対して私はこう答えよう。「否」と。 2018年に公開された『ブレードランナー2049』と『レディ・プレイヤー1』がそれを証明している。 サイバーパンクは未だ死んでいない。AIや自動走行車、ドローンや仮想通貨などの最新のテクノロジーが溢れる現代にあって、それはまだ想像力の源泉、イマージュを想起させるものとなっている。…