新しさを売りにすることや既存のジャンルを破壊するという言葉は確かに勢いを感じさせ若々しく生命力にあふれている。ところがこれらをテーマに掲げた媒体の多くから、新しさやジャンルの破壊を見出すことが極めて困難なことが多いのはなぜだろうか。そもそもここにいない者の言葉によってここにいる者が記すという営為において今まで誰も触れたことのない新しさを提示することは果たして可能なのだろうか。可能であるとするならばどのような方法論に基づいた、どのような創作表現において可能であるのだろうか。文学潮流は古来より様々なものが生まれた。時に前時代の文学潮流を全否定し、時に模倣し、あるいはオルタナティブとしての活路を見出すこともあった。まるで映写機に映し出された映像のようにシーンが鮮やかに切り替わり新しい文学潮流が前の時代の文学をインクで青から赤へ赤から緑というように塗り替えたかのように考える人もいるが、それは歴史を垂直に見ていることにはならないだろう。もとより文学活動は地層であるのだから、綿々と過去より今へと続く人の営みのなかに、私もあなたも含まれていて、ジャンルにも潮流にも属さないかすかな息遣いのままに書く、ただ愚直なまでに書くことが文学的使命であると私は考えている。つまるところ、前述したように今ここにいる者が今ここにいない者、死者のことばを借りて書く他にない。対立や敵対ではない、連帯や集合ではない、組織の趨勢や流行り廃りでもない、「ただ書く」ために生きているのに、不毛なことに時間を割いている暇はない。不毛な対立から一線を置き、私は失われた時代における私を取り戻すために、見つけ出すために、限りなく私の生かされている今を見つめ、ただ書くための場をここに作ることを宣言する。

crossover編集部は次の三点の編集方針を掲げここに活動を開始する。

一つに、「今」を「私」の視点で捉え発信をすること。

とかく公平無私であるとか、不偏不党であると謳った組織が彼らの理想とするところの状況であった試しは歴史上ない。それどころか多くは内部のヘゲモニーを自らの仮構したヒエラルキー闘争によって奪い合う。そのような状況をこれまで多々目にしてきた。なるほど、確かに公平公正であって、権力も権威も発生しない理想郷が現出し、テクストだけが魔法のように浮かび上がり、作者と編集者との関係性もなく誌面に掲載される世界は美しいかもしれない。だが、どうしてそのようなことが可能だろうか。依頼する/される、掲載する/される、これが力ではなく一体なにであろうか。そして、この力の存在を否定したとしても全くもってナンセンスではないか。たとえ顧問や編集委員を多くおき、公平公正を謳ったとしても、権力や権威がないというのは如何にもな子供だましだ。むしろ、顧問には顧問の数だけ、編集委員には編集委員の数だけ、権力と権威にまつわるしがらみはまとわりつくばかりなのである。Web文芸誌を始めることによって、私にはささやかな権力がもたらされる。今はそれが、風雨に晒された子猫を屋根の下に匿うことができるほどの力であるかもしれない。だが、やがて肥大する危険性はあるだろう。権力に自覚的であることが、編集者の第一の条件であると考える。編集者自身の文学観に基づいた編集方針を掲げ、原稿依頼をする。すべての書くこと書かれること書かれる場がこの理想を抱いて活動をしていると信じているし、この理想を手のひらに抱いて他者と手をつなぎあうとき初めて多種多様な価値観を持つ文学の土壌が醸成するのではないだろうか。私は常に喉元に刃を向けながら私にとっての良質の作品を私にとって時代を問う作品を私にとって切実で喫緊に載せるべきテーマに据えて発信をしていくしかない。ここに読者とcrossoverは一つの良質なる読者という名の共同作業者になりうるのだ。

一つに、場としての機能性を持たせること。

同時代性という括りはややもすると、胡散臭いものではあるが、詩人が歌集を読まず、歌人が詩集を知らず、小説家が詩歌のことを語らないようでは、お先は真っ暗である。韻文であれ、散文であれ、各々のジャンルを作家が場に持ち寄り、避暑地の朝の陽光のように浴びる、あるいは議論する、あるいは討議する、この場があることの重要性を、多く語る必要は感じない。その上で、陽光を浴びたことによる収穫物をひそやかに家に持ち帰り、自身の創作に活かす。このような極めて打算的であり作家のエゴイズムのような場末の飲み屋街のような酸っぱい匂いのする場をWeb上から醸し出してゆきたい。詩歌、小説、評論、論考、映像、音楽、世に問う必然性がある作品を全て発信してゆきたい。この場から発信された作品によって読者も作者も撹乱させ当惑させ上気させ噴出させ混沌とさせまた新たな作品を作りあげてゆく。固定的なものだけが場ではない、場は流動的で不在なものでもある。

一つに、人が人を書くということを手放さないということ。

これは、読者に対しての約束ではなく、私から私への戒めである。

現代詩と短歌の境界はどこにあるのか。定型とは何か。小説と詩の境界はどこにあるか。詩とは何か。詩ではないものとは何か。短歌の歴史性から何を見出すか。比較することで何が見えるか。テクストを読むとは何か。比較をする、私たちは井戸の水を、海外詩を、太陽光を、ネズミの死骸を、「荒地」を、夢を、大人と子供を、雷光と流刑地を比較する私たちは。ことばとは何か。書くとは何か。読むとは何か。定義づけられる私たちとはそもそも何か。音楽と言葉、言葉の音楽。映像と言葉、言葉という映像。私たちは読んでいるか。読まれることとは何か。何もわかっていないから、何かをわかりたい、知れば知るほど分からなくなってゆきたい。言葉で何かを作るのではなく、作ったものが結果として言葉でありたい。

2019.4.30 山﨑修平