Author: 川本 直

隠遁文芸時評/川本直

隠遁文芸時評宣言  文芸ジャーナリズムの最たるものと言える文芸時評は、私の普段の仕事とは掛け離れた領域に属する。二〇一四年にライターを辞め、評論家に転身してからというもの、取材のための外出をすることもなくなり、私は東京郊外の住み処に引きこもって隠者同然に暮らしている。日々の生活は規則正しい。毎日、午前八時までには起床する。栄養補給のためにプロテインシェイクを飲み下し、カフェオレを口にしながら午前八時半から執筆を始める。早ければ正午、遅くとも午後三時には書き仕事を切り上げ、最初の食事を摂る。たいていは蕎麦か、オムレツと野菜を主とした簡単なものだ。それからネットを観ながらメールの返信などの雑務を片付け、近所のスーパーに買い物に行き、夕食の準備をする。決まって午後六時に始める夕食は一日のなかで最も楽しみで、料理に凝ることが多い。先日は舞茸、エリンギ、ブナシメジ、エノキ、椎茸を贅沢に使った茸のホイル焼きと鶏の味噌焼きを作った。かつてはアルコール中毒同然だったが、今では飲みにいくこともほとんどない。それから明日の執筆のために資料を読み始め、映画や音楽を適当に鑑賞して、日付が変わる前には寝てしまう。最寄り駅より先の遠出は一週間に一度あればいいくらいだ。近所の人間は、私のことを引きこもりのニートだと思っているかもしれないが、知ったことではない。  私は同時代の日本文学にあまり関心がない。献本には目を通す。新刊も買うことは買うが、たいていは海外小説か学術書だ。同時代の作家についての書評は余程のことがない限り必要を感じないので、ほとんど読まない。読むのは学者が自らの専門分野の学術書を評しているものくらいだ。 例外として 、新進気鋭の評者が多い「週刊読書人」や、優れた書評家たちの記事を集めたアーカイヴサイト「ALL REVIEWS」は重宝している。  しかし、卑しくも読書家を自ら任じている人間なら、著者名、タイトル、目次、その他出版社が出している情報を見れば読むべきかどうかわかる。それらの情報によっていまいち内容が掴めなくとも、ネットで少し調べれば著者のこれまでの業績や主題、作風についての詳細もわかるから――海外のものならばその言語圏のデータや評判を調べてくればいい――書評家の助けを必要とすることはまずない。そして、読書をするうえで最も良いのは書評など一切気にせず、まずは現物にあたることだ。  私にとって文芸時評は書評より更に縁遠い。時折失望の苦笑いとともに走り読みする程度だ。私が評価する数少ない同時代の小説家や批評家はおざなりに扱われている。  文芸時評を手がける評論家は、あっちに気を使い、こっちに気を使い、何でも誉めてしまうために判断基準がどこに置かれているかわからないことが多い。そういった評論家たちは現代文学の「傾向と対策」を追うのに必死だが、受験勉強でもあるまいし、優等生ぶるのはみっともないし、何の面白みもない。彼らには自分がない。  稀に取り上げる作品すべてに辛口の文芸時評もあるが、それをやるのは「批評の批評」しか出来ない連中で、作品をロクに読めもしないのに、他人を貶めれば自分が目立てるだろうと、卑しい出世主義者の精神で下らないパフォーマンスをやらかすから嫌気がさす。彼らには作品への敬意がなく、自分が崇めるドグマを振りかざし、ジャーゴンまみれの読むに耐えない文章を書く。  私はそれより他のことで忙しい。私の仕事を少しでも目にした方はご存知だろうが、私の評論の対象はゴア・ヴィダルをはじめとした忘れられた英米作家の発掘であり、日本文学でも正典(カノン)とは見做されなかった批評家・吉田健一の再評価だった。今は古今東西の日記を論じる連載『日記百景』(フィルムアート社ウェブマガジン「かみのたね」にて掲載)を執筆中で、他にも去年丸一年かけて書いた二十七万字にも及ぶ原稿を編集者と弄くり回しており、大正時代に僅かな期間だけ活動した異端の小説家・山﨑俊夫の研究に手を伸ばしている。資料の購入だけで収入を圧迫するどころか、赤字だ。  昨年、二〇一八年には文芸評論家を名乗る人間がふたりも馬鹿をやらかしたため、「文芸評論家」と名乗るのも恥ずかしかった。TwitterやFacebookのプロフィールから「文芸評論家」という文字列を削除したくらいだ(今は便宜上Twitterのみ戻している)。教員が業界と密接な繋がりがある文筆家であることによって、大学が文芸出版の出先機関になってしまう愚行と私は無縁でいたい。大学であれ、私塾であれ、ネットサロンであれ、そういった組織はお山の大将とその無能な手下を輩出するだけに過ぎない。ただでさえ、 書くこと・読むことを教えるのは難しい。慎重に慎重を期し、真摯な態度で臨む必要がある。 時の政権に阿るのも面倒臭いからしたくない。私は外出すら面倒なのに、時の総理大臣のヨイショ本を量産する書き手の忠誠心と滅私奉公ぶりには感嘆するばかりだ。物書きはただ単に本を読み、原稿を書いているだけでいい。  読者にもずっと失望していた。付き合いで文芸関係のイベントに行けば、コネを作りたがっている作家志望者と批評家志望者が列をなし、質疑応答では自我が肥大した自分語りをする連中ばかりだった。したり顔で批評紛いの感想をSNSに書いているのもそういう類だ。  しかし、共編著『吉田健一ふたたび』の出版記念イベントをこなしていて、私はそれまで見たこともない読者たちに出会った。彼らは出版記念イベントにこれまで来たこともない、と揃って口にしたし、ネット上でもほとんど何も発信しない。ただ自分ひとりで静かに本を楽しむ読書家たちの姿がそこにあった。吉田健一はとても良い読者を持っていたようだ。「現代にこんな読者がいたのか」と驚くと同時に、私はもう一度読者を信じようと思った。  そこへweb文芸誌「crossover」編集長の山﨑修平氏から文芸時評の依頼があったというわけだ。一度は「同時代の文学にほとんど興味がないから」という理由で固辞したが、今年出版された新刊には数多くの傑作があった。リアルタイムで読んだ小説で初めて「この小説に賭けよう」と決意した、嶽本野ばらの長編小説『純潔』(新潮社)が七月二十九日に刊行されたことも大きい。優れたノンフィクションも刊行され、海外文学の翻訳も豊作だった。新進気鋭の研究者も現れた。崩壊寸前の文芸批評でもひとり気を吐く批評家がいる。加えて、「crossover」の編集長、山﨑氏の才能を私は高く評価している。彼の編集方針が悪いものだとも思えない。そう考えて、小心翼々とした優等生や浅ましい出世主義者が精一杯の建前という名のおめかしをして屯している「文芸時評」という虚飾にまみれた舞踏会に、 私は隠居先から珍しくも正装を身に纏い、 初めて這いずり出てきたという次第だ。  断っておくが、この文芸時評では芥川賞の予想などは決して行わない。流行のフレームやキーワードも使わない。ここではそこから零れ落ちたものだけを論じる。この「隠遁文芸時評」を、本を楽しむことを知っている読書家に贈る。 同時代で最も心を動かされた小説――嶽本野ばら『純潔』(新潮社)  二一世紀が始まってまだ二〇年も経っていないが、嶽本野ばらの長編小説『純潔』は二一世紀の日本文学を代表する古典になるだろう。嶽本四年ぶりの長編小説『純潔』は元々「純愛」というタイトルの下、『新潮』二〇一五年二月号に一挙掲載された。政治思想とオタクカルチャーへの言及が交錯する、この異形の小説に圧倒された私は『新潮』を何冊も買い込み、友人たちに配ったのをよく憶えている。ところが、二〇一六年の単行本発売を目前にして不幸な事件が起き、出版は中止となり、嶽本の執筆活動も控え目なものになった。私はなんとか「純愛」を論じようと勝手に原稿を書き、ふたつのWeb媒体とひとつの紙媒体と掛け合った。しかし、そのうちのひとつはスキャンダラスな記事に書き換えろ、と強制してきたため、媒体自体と縁を切った。他のふたつは単行本化されていないから、と曖昧に断って来るか、言葉を濁すだけに留まった。『純潔』が四年の時を経て、ハードカバーにして五〇八ページの大作に加筆され、出版されることとなったのは僥倖としか言いようがない。 『純潔』は文学部に所属する童貞の平凡な大学一年生・柊木殉一郎が、強引に勧誘されたアニメ研究会のオタクたちに翻弄されつつ、過激な政治活動にその身を捧げる三年生の北据光雪に恋することで革命に巻き込まれていく物語だ。光雪と連帯する新右翼と新左翼の活動家は、イスラム武装組織の力を借りて福島第一原発をジャックし、福島県を分離独立させ、天皇の位を分譲させて天皇制共産主義国家を樹立しようともくろむ。 『純潔』は「純愛」として発表された当初、「寓話」として受け止められた。しかし、「純愛」の発表の四ヶ月後、学生の政治活動組織SEALDsが結成され、二〇一六年には解散。今年二〇一九年、天皇は譲位して上皇となった。「純愛」は正に予言的な小説だった。  今、現実が追いついたことで、「純愛」を加筆・改題した『純潔』は寓話ではなく、切迫したリアリティを帯びた小説としてふたたびその姿を現した。「純愛」の畳み掛けるような進行の早いストーリーテリングは、『純潔』では壮大なスケールにふさわしく悠然とした展開に取って代わり、膨大な細部が加筆されたことによって、よりいっそう深みを増した。多くの変更が施されているが、最も重要なのは結末の差異だ。「純愛」の結末は悲劇的だったが、いささかヒロイックでもあり、革命の希望は残されていた。  しかし、『純潔』の結末に救いはない。もし『純潔』に希望が存在するとしたら、思想に生きた登場人物たちの気高さのみに託されている。変更された結末に現れる「大柄な」「兵士達」には明らかにアメリカの影が見える。嶽本野ばらはこの四年間、左派の挫折や、新自由主義化と対米従属が進行する現実を曇りのない目で認識して『純潔』を改稿したことがよくわかる。 『純潔』ではそれぞれ思想の異なる登場人物たちが議論を重ねていくなかでストーリーが進行していく。シャルル・フーリエ、ショーペンハウアー、マルクス、ルソー、J・S・ミル、河上肇の『貧乏物語』、足尾鉱毒事件で明治天皇に直訴した田中正造に至るまで、政治思想に関する膨大な言及がある。  こうした思想とオタクカルチャーへの言及が交錯する議論で遡上にあがるのは、インターネット、プラグマティズム、反原発、デフレーション、ベーシック・インカム、グローバリズム、二次元への表現規制問題、共産主義による資本主義の補完、そして天皇制だ。…