Author: 安田 直彦

現代短歌のキーワード「歌評」/安田直彦

本稿は、短歌評論を書くひとのために「歌評」についての重要文献を提示することを目的とします。 しかし、数多ある文献のなかの、いったいどれが「重要文献」なのでしょうか。 このような問いにはただちにいくつかの反論が想定できます。古くは藤原定家『定家十体』から、近年では穂村弘『短歌の友人』まで、古典と呼びうる歌論はいくつもあるではないか。さらに最近まで考慮しても、総合誌などで話題になったトピックはあるのだからそれを紹介すればいい。そもそもなにが重要かを調査するのが執筆者のおまえの役目だろう……。 そうなのです。 その「なにが重要か」の判断こそが、現在最も困難であり、それゆえ歌評について考える際に避けて通れない最重要ポイントである。ゆえに紹介する文献も、資料そのものの重要性の判断にまつわるものとする。 これが私の本稿における結論です。 詳しく述べます。 現在の歌壇においてアーカイブとアクセシビリティが無視できない問題であることは直近に発表された『短歌』誌上の睦月都の時評においても指摘されています。 現状の短歌や評論、コミュニティへのアクセシビリティの低さは、新規参入を阻害し、既存読者・評者へのハードルも上げている。「読む」が難しいために「書く」ができず、結果として書き手の層がどんどん薄くなっているのが現状だ。 睦月都(『短歌』2019年7月号 角川文化振興財団 kindle版p.190) 私は上記に全面的に賛成します。ただし、睦月の文章について私はひとつ論点を付け加えたいと思います。この時評ではアーカイブ(保存記録)とアクセシビリティ(情報へのアクセスしやすさ)が問題視されていますが、論文を集めたことがある方ならばもうひとつ気になることがあるかと思います。インパクトファクター(被引用数)です。 要は情報の質です。 アーカイブとアクセシビリティは情報の量に関わる問題です。言いかえれば、現に保存されている情報の量と手にできる情報の量です。しかし、それと同等に重要なことがあります。手にした情報が質的に信頼できるか、ということです。 はじめに提示した反論に答えるならばこうです。古典と呼ばれるものから、現在進行形で書かれているものまで、歌論は量的には十分にあるでしょう。しかし、それらの質的な信頼性を判断できるかと言えばまったく別です。たとえば子規の「歌よみに与ふる書」にせよ、茂吉の「短歌における写生の説」にせよ、現在の視点から説得的な歌論かと言えばそうではありません。評価の定まっていない現在の歌論においては況やです。今必要なのは歌論を質的に判断する能力なのです。 前置きが非常に長くなりました。本稿では上記の考えに基づき、歌論の質を判断する能力に資する文献を「歌評」のキーワードにおける重要文献とし、紹介します。 先に述べますが、いわゆる歌書は一冊も挙げていません。 ①伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』 本書の第4章「『価値観の壁』をどう乗り越えるか──価値主張のクリティカルシンキング」は短歌問わず芸術について価値判断を行う際に私がまずおすすめしたい文章です。 価値主張のクリティカルシンキングに必要だとして著者が挙げる4つの視点、  (1)基本的な言葉の意味を明確にする。  (2)事実関係を確認する。  (3)同じ理由をいろいろな場面にあてはめる。  (4)出発点として利用できる一致点を見つける。 これらを守るだけで歌会での議論の充実度は格段に上がるのではないかと思います。 歌会で定義のあいまいな批評用語が飛び交っていて、なんの話かわからなくなったことがある方はぜひご一読ください。 ②佐々木健一『美学辞典』 「価値」「美的判断」「解釈」「批評」など歌評を行う上で必須の概念を含め、美学全般について知識を得ることができる良著です。各項目につき定義とその概念についての美学史的な概要、そして著者の考える論点が示されており、ふだん辞典に親しまない方にも読みやすいのではないかと思います。「批評」の項目の以下の記述は、あたらしい歌と出逢ったとき、頭に浮かべるようにしています。 前衛が引き起こす第一の問題は、「これが芸術か」ということである。この疑念に対する第一の考え方は、古い基準を応用解釈によって新しい現象に適用し、「これも他と同じ芸術である」と主張することである。しかし、この応急策は早晩通用しなくなる。そのときには、芸術の概念そのものを問わざるをえなくなる。…